大学で多読が広がりやすい理由はいくつか考えられます。一つは、授業の内容に関して、教員の裁量が大きい場合が多いことではないかと思います。また、それに関連したことですが、JLPTなど試験の対策に追われたりしていないため、腰を据えて日本語のインプットに取り組めることです。さらに、本にせよ映画にせよ国内の大学の日本語教育では、表面的な文法や語彙などだけではなく、言葉で表された中身についても、考えたり、ディスカッションしたりする授業が行われることがもともと多いことも関係がありそうです。中身そのものを楽しむことを重視する多読は、このような大学での学習のあり方と親和性が高いのだろうと思われます。
上述の学習者の一人も話していますが、多くの学習者にとって、大学に入るまで、または、日本に留学してくるまで、日本語学習とは文法や語彙を覚える「勉強」であるようです。多読授業では、その「勉強」した日本語が、生きた言葉として息を吹き返すのです。
しかし、だからといって、多読をするのは大学でなくてもいいはずです。例えば、アニメやマンガが好きで日本語学習を始めたものの、学校で勉強している日本語はなんだか違うものだったとがっかりしていた人も、多読をすれば、アニメも漫画も同じ日本語学習の一つの輪の中に繋げられます。