日本語教師の履歴書 vol.5 松島調さん

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vol.5 「『人生どないしよ』から、『これで食っていく』へ」松島調さん

これから日本語教師を目指す人に、日本語教師の働き方にはどのようなものがあるのかを知ってもらうための連載。日本語教師や、日本語教育に関係する職に就いている人、日本語教育の勉強はしたけど別分野の仕事に就いた人、日本語教師から転職した人、転職して日本語教師になった人など、さまざまな形で日本語教育に携わる方々にお話をうかがい、日本語教師のキャリアについてみなさんと考えていきます。
今回は複数の大学で非常勤講師として日本語を教える松島調さんです。


《今回の「日本語教師」》松島調(まつしま・なり)さん  一般社団法人日本語教育支援協会代表理事。医学部志望→哲学→社会科学→日本語教育と学的?模索ならびに人生の複興味・複関心の道を辿るが、今のところ日本語教育はその実践としての帰結。世界市民と永遠平和の日本語教育を提唱する。2019年6月現在、早稲田大学、東京電機大学、武蔵野大学大学院、横浜市立大学で非常勤日本語教員、また、ARCアカデミーでweb養成講座講師・茶道体験講師、和綴じの招聘講師等。これまで社会人対象の学芸員講座の運営に8年間携わる中で「学び」の視野を養い、またある時には外資系IT会社で日本語の機械学習に携わり、日本語教育とは異なる観点から人間そして言語への洞察を深める。https://www.narifis.com #すべての人に日本語を


《聞き手》瀬尾匡輝(せお・まさき/茨城大学全学教育機構 准教授)、瀬尾悠希子(せお・ゆきこ/獨協大学国際教養学部 特任講師) それぞれが大学で日本語教師養成の授業を担当している。学生たちの「『仕事』としての日本語教育をイメージすることが難しい」という声を受け、いろいろな「日本語教師」に話を聞きに行くことに。


2019年2月19日、代表理事を務められている一般社団法人日本語教育支援協会の事務所の書斎にてインタビューさせていただきました。約3時間半にわたって松島さんのこれまでについて熱く語ってくださいました。

「どないしよ」
―高校中退、ブラック企業を経て、タイに

松島 そもそも私、高校中退なんです。成蹊小学校から高校1年生まで行ったんですけど、親に言わないで勝手に高校を辞めちゃったんです。

瀬尾ま え? 何があったんですか。

松島 別に勉強したくなかったし、他の高校に恋人がいて、その人と一緒にいるほうが楽しかったから、辞めたんです。でも、親は「高校ぐらい出ろ」って言って、定時制や通信制の高校の願書を集めてきて。学校に行きたくなくて辞めたんだから、定時制はないでしょう? それで、通信制だったら学校に行かなくてもいいって思って、通信制の高校を受験したら通っちゃったんです(笑)。
でも、親に「どんなことを勉強しているか、取った科目を見せろ」って言われたときに、文書事務とか、体育とか、理科の実験とか、そういう授業ばっかりだったから、「お前はここで何を勉強してるんだ。国語と数学と社会は学生の基本だから、勉強しろ」って言われて。それで、面倒くさかったからタウンページをパッと開いたら地図が載ってる塾があって、渋谷と原宿の間だったんです。いつもその辺にたむろしていたから、ただそれだけで、「じゃ、ここにする」って。この塾がまた面倒見がよくて、遅刻すると速攻でうちに電話をかけてくるようなところで……。

瀬尾ま 至れり尽くせりというかなんというか。

松島 その塾では面談もよくあったんだけど、その面談で「松島さんは、将来何になりたい? 何学部に行きたい? 今の成績だったら、どこでも狙えるぞ!」って言われて。で、医学部が一番難しいと思って適当に「医学部に行きます」って言ったら、先生が本気にしちゃって、医学部受験が始まったんです。

瀬尾ゆ したくないにもかかわらず。

松島 でも、基本的にだらしがないから、レポートが間に合わなくて卒業予定見込書みたいなものを出してもらえなくて、浪人しちゃったんです。で、私立大学だけじゃなくて国立も考えるようになって。国立を受けるためにセンター試験の勉強を始めたときに、「倫理が一番、点取りやすいよ」って言われて、倫理の勉強を始めたら、はまっちゃって。それで哲学科に入学したんだけど、想像していたようなものとは違って、つまんなくて。で、やっぱり医学部に行こうと思って、1年間また予備校に行くんですけど、だめでした。だめっていうのは、大学に行くとお酒を飲む生活になってしまって。

瀬尾ま 20歳だから飲めますもんね。

松島 そう。父親は医師なんですけど、「医者っていうのは往診しないと医者ではない」と言っていて、夜中に患者さんから電話がかかってくると往診に行くわけですよ。それを見て、自分には無理だなと思って。で、医学部受験は辞めて、結局通っていた大学を続けることになって。その辺りから「どないしよ」が始まった

瀬尾ま 面白いと思った哲学科は面白くなく、医者もあれで、目標が自分の中になくなっちゃったんですね。

松島 20歳ぐらいからの「人生どないしよ」っていうときが、本当一番辛かった気がします。
大学生のときは就職活動をしてなくて、合気道の先生に「おまえ、そんなんじゃだめになる。とにかく1回仕事しろ」って知り合いの会社を紹介されて、1週間で就職しちゃったんです。その会社は証券会社が出すエクイティレポートを配達する運送会社だったんですよ。

瀬尾ま エクイティレポート?

松島 証券会社が「どこの株がいいよ」っていうのを毎日エクイティレポートという形で出していて、私が勤めていた会社は証券会社からそれを集めて、機関投資家に配達していたんですよ。で、私はそのレポートを読んでいるわけじゃないですけど、タイトルを見るたびに「この世界はなんなんだ」って思って。なんていうか、世界の富の何割かをこういう人たちが持っている。このシステムはなんだっていう。で、そのときに社会システムに対する反骨精神が芽生えてきたんです。

瀬尾ま瀬尾ゆ へー。

松島 でも、そのときはまだ芽生えているだけで、特に何か行動に移したわけではなかったんですけど。とりあえずそこはブラック企業だったんで、1年ちょっとして辞めたんです。平均的に残業時間は月100時間、残業代なし、休み時間もなし、トイレに行く暇もないし、副社長のセクハラもあるし、お昼もおにぎりを食べながら仕事しているようなひどい労働環境だったんで。それで、そのときタイ人とお付き合いをしていて、その人が本帰国するっていうんで、彼が本帰国した翌日に私もタイに行ったんです。

瀬尾ゆ 結婚を視野に?

松島 その意識は結構ある。20代は辛いですよね。向こうはタイだから、とりあえず行ってみないとわかんないっていうのもあるから、1カ月向こうにいて帰ってきてみたいに、短期で。ビザをとれば2、3カ月はいられるから、時々ビザを取って。

瀬尾ま タイで仕事とか勉強とかするわけでもなく。

松島 私もタイに行ってどうしようと思っていて。私、大学のときにコンピューターの授業を取ってHTMLでホームページを作るのにはまっちゃって、実は大学生の頃からWEBデザインのアルバイトをしていたんですよ。それで、東京から知り合いがタイに仕事を振ってくれるので、仕事を辞めても何とかなるやという気持ちもあったんです。

瀬尾ゆ WEBだとどこでもできますもんね。

松島 でも、恋人は朝早く仕事に行って、夜遅く帰ってくるじゃないですか。それで、日中「どないしよ」と思って。タイ語もわからないし、友達もいないし、「よし! わかった。タイ語の学校に行こう」って決めて、午前中にタイ語の授業が毎日3時間ある学校に行って、午後はバンコクの合気道の道場に行って。

瀬尾ま その合気道は、タイの人と混じって?

松島 そう。すごくよかったです。今でも忘れられない。そのときの友達、いまだに仲良くしてますよ。午前中、「これはコップです」みたいなタイ語を学校で勉強して、午後は合気道コミュニティで片言でそれを実際に使う。で、夜は毎日合気道仲間とビールを飲む。道場の人たちも大学生ぐらいだったから、稽古が終わってみんなで一杯っていう日々でした。

瀬尾ま 楽しそう。

松島 そう、すごく楽しくて。で、タイ語の学校っていうのがすごく楽しくて、それが後に日本語教師になるきっかけになるわけですよ。私の日本語教師としての原点なんですよ。よくある話かもしれないんですけど、とにかくすごく楽しかったんです。

瀬尾ま 何が楽しかったんですか。

松島 それなんです! 私もいつもそれ考えるんですけど、本当に「これはコップです」とか、「オレンジジュースを1杯ください」とか、「いくらですか、安くしてください」とかやってるだけにもかかわらず、お腹が痛くなるぐらい毎日笑ってたんです。よくわかんないけど、先生も私たちもみんな笑っていて、こんなに楽しい仕事が世の中にあるのかと思って。私も日本語を教えられたら、こんなに毎日楽しくて、お金ももらえて、しかも世界のいろんな所に行けるかもしれないじゃんって最初に頭によぎったの、今でも覚えてる。でも、何が楽しかったのかな。多分ちょっとしたミスとかが、すごい楽しかったのかな?

瀬尾ま ミス?

松島 そう、それだ! 今でも覚えてるな。いろいろ話をしてて、私は「雪が好きで、雪を集めて遊ぶのが好きです」って言いたかったんです。でも、私、単純に「雪」っていう単語と「ごみ」っていう単語を言い間違えてて(笑)。

瀬尾ま じゃ、「ごみを集めるのが好きです」って間違って言っちゃった。

松島 そう(笑)。今思い出しても、やっぱり面白い(笑)。そのときはとにかく楽しくて、間違えるのもすごい楽しかった。イタリア語とかスペイン語とか、趣味で外国語の勉強を結構やってましたけど、基本的に間違えてはいけなかったんです。でも、語学学習がこんなに楽しいと思ったことって初めてだった。

タイ・クンハンウィタヤサン校にて卒業おめでとうの日。卒業生
は在校生に白い粉を塗りたくられる慣習


「ことばの教育っていうのは、人間教育である」
―自動車販売、学芸員講座、カント哲学、そして日本語教師の道に

松島 大学生のときに老舗の車屋さんでアルバイトをしてたんですけど、そこの社員の人が独立することになって、お手伝いをしていたんです。で、私はWEBができたから、「インターネットで車を売ろう」って提案したんです。今はインターネットで車を買うのは当たり前になってますけど、当時は全然なくて。それで、インターネットで販売してみたら、車を仕入れた次の日に売れちゃうことがずっと続いて。インターネットで車を買う人っていうのは、地方に住む人が多くて、地方に納車に行くことが結構あったんです。私はプラプラしていたもんだから、旅ができるし、楽しいから地方納車にくっついて行って。私がお手伝いしていた人も歴史が好きな人だったので、高速で行かずに下道をずっと行って、昔の古地図とか調べて、「多分ここが旧道だと思う」とか、「ここは本陣跡だよ」っていうことを言ってたんですね。

瀬尾ゆ そんなのがわかるんですね。

松島 そう。それで、あるとき横浜の本牧の歴史の資料館に行ったときに、お客さんなんて誰もいなくて、そこの事務の人が「よくこんな所にいらっしゃいましたね。今、学芸員の人を呼んできますから、ちょっとお待ちください」って言って。そのとき私は「学芸員って何?」って思って。そしたら、その学芸員という人が来て、海苔の養殖の話とか、本牧の歴史とか、館内のものを全部説明してくれて。私は、その土地に根づくいろんな人々の暮らしとか歴史とか美術とか工芸とかが好きなんです。学芸員っていう人はそういうことを専門にしている人なのかなと思って、家に帰って学芸員の資格を取るにはどうしたらいいかを調べたんです。それで、普通は大学で取るものだっていうことがわかって。当時、私はブログを書いていて、ファンが付くような感じで知らない人も結構読んでくれていたんですけど、早稲田大学のエクステンションセンターの職員の方が偶然私の読者だったんですよ。当時は会ったこともなかったんですけど、「調さんに合ってることを早稲田でやってるよ」って、早稲田大学文学部の学芸員資格課程の夏季集中講座の資料を送ってきてくれたんです。

瀬尾ま瀬尾ゆ へー。

松島 それは社会人を対象にしたもので、私はその4期生になったんです。この講座で何をするかっていうと、学芸員の心構えだとか、契約書をどうやって書くだとか、モノの貸し借りのための所有者とのセッションの方法とか。あとは、拓本墨を作って拓本を取って裏打ちをするとか、軸の仕組みとか、桐箱の扱い方、紐の結び方とか、日本刀の扱い方とか、鬼瓦の複製とか、カメラの使い方とか、梱包とかを学んだんです。

瀬尾ゆ すごい! 確かに学芸員。

松島 このときは本当にいろんな出会いがあって、私の人生の転機になりました。ここが無ければ今の私はないと思います。博物館実習を担当してくれた内藤勝雄先生にはその後TA等として定年退職までの7年間師事したり、先生のところでお茶の教室を開催するようになったりと、もう13年ずっと学び続けています。なんて表現したらいいかわからないですけど、人生的な人間関係になってます。それから、教育学が必修だったんですが、それを担当してくださった山西優二先生の授業を受けているときに、学芸員の資格を取って美術の世界に行くのではなく、大学院に行こうってひらめいたんです。

瀬尾ま 大学院。

松島 そう。突然ひらめいて、家に帰っていろいろ調べて。以前勤めていたところで社会システムに対する反骨精神を持つようになっていたので、自分の問題意識は社会科学にあるって目途を付けて。それで、学芸員の講座の昼休みに早稲田大学の文キャン(文学部キャンパス)から本キャン(本部キャンパス)の入試センターに走って入試要項をもらいに行って、研究の「け」も全然知らないのに、朝の1限から夕方の5限まで授業があるにもかかわらず、うちに帰って1日で研究計画書を書いたんです。今から考えると、その研究計画書は恥ずかしくて、二度と見たくない。

瀬尾ま 早稲田大学の社会科学研究科を選んだのは、そのときに資料をもらったから?

松島 資料が取れたというのと、あとは受かったからです。実は他の大学院も受けていたんですけど、そこは10人ぐらいの先生たちがバーッと並ぶ圧迫面接で。面接で「君がしたいことは何なのか」って聞かれて、「よい社会を作ることです」って答えても、「よい社会とは何か」ってさらに聞かれて。自分は軽々しく1日や2日で大学院に行くことを決めたようなもんだったから、答えられなくて。それで、「そんなんじゃだめだ」って怒られて。

瀬尾ま 面接で…。

松島 こういうぶらぶらとした生活をしていたから、基本的に精神状態もよくなかったんです。やりたいことがないっていうのは一番つらいことで。だから、私は20代には二度と戻りたくない。他の人から見たらいろいろ楽しそうに見えるとは思いますけど。
当時はまだタイ人の恋人と付き合っていたので、精神的にいっぱいいっぱいだったので、早稲田ではない大学院の結果発表の3日前ぐらいにタイ行きのチケットを買って、スーツケースを持って試験の結果を見に行きました。結果はもちろんダメ。空港に行く電車の中で井上靖の『星と祭』を開いて、1行読んだ瞬間に涙がボロボロ出てきて。それは今でも忘れない。スーツケースを持っていて、その人の精神状態がすごく不安なのが書いてあったんです。それが9月29日だかで、実際の日と小説の中の日が同じ日だったの。その人と同じ日にスーツケースを持って電車に乗っている、ただそれだけなんだけど、もう精神的にいっぱいいっぱいのところまで来ているので、ただそれだけで涙が出ちゃうっていう。空港でも、ブラームスの交響曲第四番を聞きながらずっと本を読んで泣いているわけ。『星と祭』って、琵琶湖に自分の娘が恋人と一緒に沈んで行くっていう悲しい話なんですけど、その沈んでいく感じが私と同じみたいな感じに思ってしまって。
で、1泊か2泊ぐらいバンコクで。

瀬尾ま 本当にちょっとだけの滞在なんですね。

松島 そう、とにかく逃げたかったから。それで、また東京に戻ってきて、次の日、早稲田大学の面接に着ていくスーツがなかったから、親と一緒に買いに行ったんです。次の日が面接だったけど、私みたいなのが大学院に行こうなんてのが誤りだったっていう気分だったで、私、なんでこんなひらめきだけで、いろいろ行動してしまうんだろうって。ばかだなってすごい反省していて。それで、デパートで親と食事したんですけど、普段は親と話さないし酒とかも飲むわけでもないんですけど、次の日が面接だったにもかかわらず、落ちてもいいって思ってたから、その日は父親とほぼ初めてくらいにお酒を飲んだんです。で、帰って何も準備せず。その次の日、「行ってまいります」って言ってドアを開けた瞬間、私の人生、また辛くなると思った。やめればいいのに、私、このまま面接に行くのやめようって思って。だけど、もう受験票を手にしていたので、「じゃあどこ行くの?」って自分に言い聞かせて、取りあえず行くだけ行ってみようと思って会場に行ったんです。でも、着いてからも、なんで私、来たくないのに来たんだろうってトイレで、面接の前に吐いたの覚えてます。なんで私、ここが嫌だと思ってるのに来ちゃったのかなって。
あと30分だけ乗り越えよう、とりあえず人生の記念かなって感じで面接に行ったら、自分の指導教員になる経済社会学の東條隆進先生と、経済思想史の古賀勝次郎先生がいて。それで、不思議な感覚なんですけど、会った瞬間に救われたって感じがして。東條先生は本当に恩師です。不思議な力があって、あんな人はほかに誰も知らない。救われました。

瀬尾ま どうしてその先生を指導教員として選択したんですか。

松島 研究のテーマは「よい社会」っていうのにしたかったから、よい社会で検索したら、その先生の『よい社会とは何か』っていう本が出てきて、読んだんです。その面接で救われたと思ったのは、人の話を聞いてくれる、私の言いたいこととか、持っている問題意識を引っ張り出してくれる面接で。

瀬尾ゆ 受かる前から、面接でもう救われた?

松島 そう。私、別に落ちてもよかった。でも、受かってからが大変でした。経済学や社会科学を勉強したことがなかったから、右も左もわかんないし、まずいと思って。だから、そこからは猛勉強で。今、大学院生を対象にしたアカデミックライティングを教えているんですけど、学生たちが研究のテーマを決めることができない辛さがすごくわかる。アカデミックの俎上に乗っけるって、これまでと全然世界が違うわけじゃないですか。
早稲田大学の社会科学研究科っていうのは、社会人がすごく多くて、現場でいろいろ思っていることを研究する人が多いので、みんなは既にやりたいことが結構あったんですよ。私はやりたいことがモヤモヤとしてる。しかも経済学や社会科学を一から勉強しなければならなくて、自分のテーマを「どないしよ」って思っていました。

瀬尾ゆ 何を研究されたんですか。

松島 大学で哲学を勉強していて、やっぱりカントが好きだったから、カントの平和論をやったんです。私の修士論文のテーマは「世界市民における平和:カントを中心にして」で、永遠平和の政治思想史みたいな感じです。永遠平和っていうものが、どういう流れで出てきて、どういう形になって、今の現実世界に表れてるかっていう思想潮流をめぐる文献研究をしました。
自然というものは、全て理にかなっている。存在にはそれぞれ理由がある。じゃあ、人間を他の動物と区別してるのは何か、人間の特徴は何か。それは、理性、思考、道徳的存在っていうことを、カントは言う。それがないと人間ではない。だから、それがあたかも可能になるかのごとく行為することが人間に課せられた使命だ。そういう人のことを、世界市民という。っていうのがカント哲学で。

瀬尾ゆ おもしろいですね。

松島 おもしろいんです。でも、研究者になりたいというわけでもなかったので、言うなれば興味というか趣味というか。それで、修士課程が終わるときに、みんな就職活動を始めるわけじゃないですか。でも、日本のこの就職活動というものはなんなんだっていうような気持ちがあって、また同じことを繰り返すのかと思って、私はすごく嫌だったんです。かといって別にやりたいこともなく、また「どないしよ」なわけです。で、そのとき大学でランゲージ・エクスチェンジもしていて、頭の中にタイ語を勉強していたときに思ったことがよぎったんです。

瀬尾ゆ 日本語教師。

松島 そう、じゃ、とりあえず日本語教師っていうのもいいかもしれないなと。とりあえず資格だけでも取って、それから考えようかなと思って、420時間の養成講座に通い始めたんですよ。博士課程の研究計画書も全然書けなかったので。修士課程入試のときは一瞬で書けたのに、博士のときは全然ことばが出てこなくて、雲泥の差。で、1年社会科学研究科の科目等履修生をやって研究室にも残りつつ、養成講座にも行き、それで日本語教師の道が始まったんです。

瀬尾ま このときは仕事としての日本語教師を徐々に考えていたっていうことですか。

松島 そう。考えていたんですけど、カントの研究は研究、日本語の先生は日本語の先生って別物に思っていたんですよ。

瀬尾ま じゃ、大学院が趣味で、本業は日本語教師みたいな感じで。

松島 本業っていっても、お金にならないじゃないですか。だから、とりあえず日本語教師の経験を積みつつの、研究生活かなって思ってたんですよ。でも、420時間の養成講座を受講した後に国際交流基金の「JENESYS 若手日本語教師プログラム」を受けたら、受かっちゃって。しかも、博士課程も受けたら受かっちゃった。それで、両方行けばいいやと思って。

瀬尾ま じゃ、博士課程に入ってすぐは休学するような感じ。

松島 そういうこと。

瀬尾ゆ どうしてJENESYSを受けようと思ったんですか。

松島 どこで見つけたか覚えてないんですけど、養成講座の人たちはすぐ日本語学校に就職するわけです。それで、JENESYSをどこかで見て応募して。第1希望、第2希望、第3希望って書くんですけど、このときはもうタイ人の恋人とはお別れしてたんですけど、タイに関しては全国に行ってたし、土地勘あるし、タイ語もわかるし、第一希望はタイって書いたら受かったんです。
タイでも、カンボジアとラオスの国境の近いところで、本当に辺鄙なところにある中等教育機関で日本語を教えたんです。最初はファンシーな気持ちで行ったんですけれども、そこで、どうして彼らは日本語を勉強しているんだろうかとか、私は何のために日本語を教えているんだろうかとか、日本語を教えることで何ができるのかっていうことを考え始めたんです。自分が辺鄙な環境に置かれたからこそ、日本語教育でできることは何だろうかということを考え始めたのかもしれないですね。で、そういうことを感じ始めて、研究もしなければいけなくて、たまたまカントの『人間学』を読んでたんです。
これがすごくよくて、カント哲学には、純粋理性批判、実践理性批判、判断力批判という三批判書があって、『人間学』はその実践なんです。カントの哲学は一人ひとりへの要請が問題になっているんですけれども、『人間学』ではその先には実は教育があるっていうことを書いていて。これを読んだときに、「あ、待て、私は今ことばの教育をやってる」って気づいて。しかも、カントが理性と言ってる。ことばっていうのは理性に関わること、しかも市民社会を媒介するものじゃんって気づいて。それで、実はことばの教育っていうのは、人間教育であるっていうことに気がついた。人間の特徴は、思考する存在。そして、市民として公共空間に生きている。ことばもまったく同じように思考を司るものでもあるし、他者との公共のものでもあるから、そこをやろうと思って。
それで、日本語教育の世界で生きていくためには420時間の養成講座じゃだめだ、日本語教育の修士が必要だと思って。

瀬尾ゆ お金にするために。

松島 そう、日本語教師で生活するために。社会科学研究科の修士号はあるけど、それは日本語教育とは関係ないし。博士課程に入ったのはいいものの、博士号を取るなんて何年かかるかわかんないですし。修士号だったら普通2年で行けるじゃないですか。だから、とっとと日本語教育の修士号を2年で取るか、それとも社会科学の博士課程に戻るか1年間考えて。でも、いったん新しい選択肢ができちゃった以上は、気持ちってそっちのほうに行きますよね。それで、早稲田大学の日本語教育研究科に入ったんです。

瀬尾ま 早稲田の日本語教育研究科にしたのはなぜですか。

松島 細川英雄先生がいたから。日本に帰ってから、いろいろ本を読んで、細川先生のことを知って細川研究室に入るつもりで早稲田に入ったんです。でも、細川先生は早期退職されて、入れなかったんですけどね。

瀬尾ゆ 日本語教育研究科での研究のテーマは何だったんですか。

松島 『世界市民における日本語教育ー思考と公共性を手がかりにー』。

瀬尾ゆ どういうことを書かれたんですか。

松島 理性的な人間を育てるのはことばだから、思考というプロセスがない教育は、教育ではない。

瀬尾ま それはタイで気づいたことにつながってる。

松島 そう。それがテーマです。

カント『人間学・教育学』を開く

「これまで学んだことが実は生かされている」
―様々な経験を経て…

瀬尾ま 日本語教師の仕事はどうやって見つけたんですか。

松島 日本語教育研究科在籍中に、日本語学校でアルバイトを始めるんです。420時間の養成講座は出ていたので、なんかアルバイトしようと思ってネットで検索していたら、たまたまうちの近くで求人情報が出ていてそこで教えていました。それから、仕事ではないですが、大学院のとき、紹介を受けて、国会議員の方のインターンをやっていたこともあります。政治って遠い世界の感じがしていましたが、実際に一人ひとりがアクションしていくことが社会を変えてことに繋がるんだなと実感しました。社会のいろいろな課題に取り組まれている様子を見て、ニュースや遠い世界のことではないと意識が変わりました。修士修了後は六本木の某外資系IT会社に行って、人間ではなく、機械に対して日本語を教えていました。といっても正社員じゃなく、派遣ですけど。

瀬尾ま 何をするんですか。

松島 機械がことばを理解できるようにする。いろんな文章を人間の目から見て文法の観点から分析して、アノテーションしたものを機械がディープラーニングで学んでいく。後は諸々です。マシーン・インテリジェンスです。

瀬尾ま そんな仕事があるんですね。このとき、日本語を教えていたんですか。

松島 早稲田大学と東京電機大学で非常勤をしていました。IT会社の方は通常1日8時間の週5日勤務の仕事なんですけど、1日10時間働いて週4日にしてもらって、金曜日と土曜日に大学で非常勤として働いていました。

瀬尾ゆ 週1日の休みで、結構忙しいですね。IT会社だけでも生活はしていけそうですけど、日本語教育のほうも続けていきたかったんですか。

松島 そう。生活はしていけたけど、そういう問題じゃない。自分の可能性を見つけて日本語教育の現場に来たので、そこは絶対に地に足をつけておこうと思って。

瀬尾ま 大学院で考えていたことは、実際に現場で実践できていますか。

松島 うーん、大学によってはやることが決まっちゃってるから、なかなか難しいんですよね。でも、やり方によってだと思います。哲学ってエッセンスだと思うんです。思考と公共性っていうエッセンス。単なるスキルトレーニングに陥らないで、人間を育てるっていう意識をちゃんと持とうっていうところだと思うんです。だから、思考のプロセスがある活動をするとか、他者に自分の意見を表明して、他者が表明した意見を自分が受容して、自分もまたそこで考えて…。そういう空間が言語活動だと思うから、そういう活動にするよう、常に心がけています。

瀬尾ま 今も早稲田大学と東京電機大学でのお仕事を続けられているんですか。

松島 今も続けてるんですけど、今年度(2018年度)からは武蔵野大学の大学院が増えて、来学期(2019年度前期)からは横浜市立大学でも仕事を始めます。

瀬尾ま こういう仕事っていうのは、どうやって見つけられるんですか。

松島 早稲田大学に関しては、非常勤インストラクターの公募を自分で見つけて受けました。後はメーリングリストや諸々の求人情報をくまなくチェックしたり、仕事をしたいというオーラを内面から出したり。オーラを出していると、知り合いが情報を教えてくれることも多いです。

瀬尾ま ずっと「どないしよ」っておっしゃってたんですが、どのタイミングから、「どないしよ」っていう気持ちがなくなったんですか。

松島 社会科学研究科を去って、日本語教育研究科に入ったときぐらいかな。あれだけ頑張っていろいろやろうと思っていたにもかかわらず、社会科学研究科を辞めたわけで。私はこれまで辞める人生だった。これ以上辞められないなっていう気持ちもあるし、日本語教育研究科に入って割と見えてきたというか。これで食っていくっていう気ですか。

瀬尾ま なるほど。

松島 日本語教育の世界で、こういう哲学的なことやってる人もいないし、私はお茶をやってるし、学芸員の講座で習って和綴じちょっとできるし、稀有な存在になり得るかも、と。2018年の夏には、介護・看護のために日本語を学ぶ人たちを対象にした茶道の講師を日本とベトナムでしました。和綴じも最近の私のチャーミングポイントのひとつになりつつあるから、結構面白いです。別に和綴じを教えること自体が目的ではなく、和綴じはあくまでひとつの手がかりで、要はポートフォリオなんです。学生たちは和のものがいいとは言ってますけれども、私には教育的な思惑が背後に色々あって。私が最初に和綴じを習ったときには将来に生かされるとは思っていなかったですけれども、自分が学芸員講座で学んだことが実は今、生かされている。

和綴じ。日本語学習の思い出と軌跡を自分の手で縫い上げる

「あがかないと、光は出てこない」
―松島さんからのメッセージ

瀬尾ゆ 最後に、今から日本語教師になりたい人やキャリアの浅い人たちに向けてメッセージはありますか。

松島 言うことは決まってる。やりたいようにすればって。

瀬尾ゆ やりたいようにすれば。

松島 人生が辛いのって、よくないと思うんです。とにかく、エンジョイする。レッツ・エンジョイ・ライフ。それが一番。

瀬尾ゆ なるほど。

松島 いろいろ考えると、たらればになっちゃう。私は、もしあのときに何とかすればよかったっていうのは考えないんです。苦しみの中に光があるっていうか。あがかないと、光って出てこない気がするんです。

瀬尾ま 苦しいけれども、そこから光が見えてくる。

松島 苦しめば苦しむほど。これって研究にも全く同じこと言えると思うんですけど、苦しめば苦しむほどいいものができるっていうか。人生、楽なものなんてないし。だから、苦しんでる最中にパッと見える。私の場合で言うと、「よぎったもの」。光っていうのは、直観ですよね。パッと見える瞬間があるわけです。エジソンが「天才は99パーセントの努力と1パーセントのひらめきだ」って言ってるんですけど、普段どれだけ努力しているかっていうことも大事なんです。蓄積があるから、自転車に乗ったりしているときとか、お風呂に入っているときとかに、いきなりアイデアが出てくるんです。だから、悩みだとか、辛いだとか、どないしよっていう気持ちがいろいろあっても、あるとき、ひらめきとして瞬間的に出てくるのかもしれないです。
苦しんでるときって、その先に光があるなんてことは想像していないわけですよ。でも、いきなり、突然光はパッと現れるというか。先ほどのレッツ・エンジョイ・ライフも、快楽主義というわけでもないんですよ。毎日楽しければいいじゃんみたいな、そういうエンジョイじゃなくて、苦しいっていう所から抜け出すことも含めて、自分がいかに生きるかっていうことだと思いますね。

インタビューを終えて

瀬尾ま 約3時間半にわたるインタビューでしたが、聞き入るように松島さんのお話をうかがいました。前回の小山さんが人生の経験が「何一つ無駄にならないのが日本語教師の世界」とおっしゃっていましたが、松島さんがまさにそれだなと思います。一見回り道をしてきたようにも見えますが、今の日本語教師としての松島さんがあるのはこれまでの人生経験があるからなのかもしれません。

瀬尾ゆ 「あのときに何とかすればよかったっていうのは考えない」と最後におっしゃっていたのが心に残りました。苦しいながらも、そのときどきにきちんとあがいて決断をしてきたから、後悔なく前に進めるのだろうという気がしました。


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