ソーシャル・メディアをめぐる冒険 第3回 自律性と一斉学習

最終更新日

 

【連載】ソーシャル・メディアをめぐる冒険〈毎月第4金曜日更新〉

第3回 自律性と一斉学習

 

この連載第1回目はなぜ今ソーシャル・メディアに注目する必要があるかを、その普及率、学習効果、教師の成長という3点からご紹介し、第2回目は実際にソーシャル・メディアを駆使して日本語を身につけている「冒険家」たちをご紹介し、教科書を使わない学び方や、その学習プロセスにおいて大きなパラダイムシフトが起きていることについても触れました。第3回目の今回は、こうしたパラダイムシフトの中で多くの日本語教育機関が当然の前提としている考え方について、あらためて考え直してみたいと思います。

 

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学びを管理できるのか


前回ご紹介したような冒険家のみなさんの話を聞くようになってから僕が自分自身の実践を振り返って違和感を持つようになってきたことの1つに、「教師は学習者の学習を管理すべきだ」という主張や、その前提にある「管理することは可能である」という認識があります。

 

もちろん、学習リソースが極めて限られていた時代はこうしたことが可能でした。インターネット時代以前は、学習者にとって学習リソースが教科書と教師しかないというようなことが海外ではまったく珍しくなかったのです。ですから、その時点で学生が何を知っていて何を知らないかを教師が把握することは実際に可能でした。そして、教案を作るときは「学習者が知らないはずのこと」を「学習者が知っているはずのこと」に変えることが目的とされ、テストもそれを評価することになっていました。そのころは僕自身もティーチャートークで未習語を使わないようにずいぶん気を使っていましたし、養成講座でそのように指導していた時期もあります。

 

しかし、多くの人が指摘するように、インターネットやLLC(格安航空会社)などの出現により、こうした状況は過去のものとなってしまいました。日本の音楽や映像作品も合法的に海外で楽しめるようになっていますし、さまざまなソーシャル・メディアやメッセンジャーアプリで朝起きてから夜寝るまでずっと日本人とコミュニケーションすることもできるのです。日本語学習者はこうした日本語に触れ、学校でタテマエ上「未習語」とされているものが実際に未知であるかどうかはわからなくなっています。

 

こうした結果、従来は可能だった教師による学習の厳密な管理はもはや不可能になってしまいました。僕たちは学生がどんな語彙や文型を知っているか把握することはできない時代になっているのです。そして、何を知らないかがわからない以上、何を新しい知識として教えればいいのかも極めて不明確になっています。

 


学びには1つのスタイルしかないのか


僕が冒険家のみなさんの話を聞いていてもう1つ特徴的に思ったのは、みなさんの学び方が非常に多様だということです。正統的に教科書で勉強する人もいないわけではありませんが、前回ご紹介したロシアのアンナさんのように日本人とLINEでチャットして日本語能力試験N1に合格してしまった人や、アニメをひたすら見続けた人、AKB48のバラエティを解読した人など、本当にいろいろな学習方法があるのです。

 

そしてそれらは、学習者本人の学習スタイルやコンテンツに対する嗜好などに深く関係しているので、互換性はほとんどありません。アンナさんは「アニメには興味がない」とはっきり言っていましたし、アニメで日本語を身につけてしまったルーマニアのジョルジアナさんは、アンナさんとは逆に本物の日本人とコミュニケーションしたことはほとんどなかったと話していました。実際に僕がインタビューしているときも目立って緊張していたので、もともと内向的な性格なのかもしれません。

 

これは言い換えると、独習で日本語を身につけたアンナさんとジョルジアナさんの両方に同じように効果的な学習方法はないということでもあります。アニメの嫌いな人にどれだけ「アニメを見ろ」と言っても限度はあるでしょうし、内向的な人に「知らない日本人とチャットをして日本語を身につけろ」と言っても難しいでしょう。つまり、誰にでも効く特効薬のようなものはないのです。

 

日本語教育の本当の意味のプロであれば、こうした多くの学習者のパターンから相手に最適な学習方法を提示することができるでしょう。しかし、現在主流となっている一斉授業では、授業時間外に教師が一人ひとりにアドバイスやカウンセリングをする余裕はとてもありません。

 

 


学習者が自分で決める。それが自律性


 

では、教師が学習者の学習状況を把握できず、多様な学習者に最適な学習プランを提示できないとしたら、いったい誰が学習者の学習を管理すればよいのでしょう。

 

それは学習者本人にほかなりません。何を知っていて何を知らないのかを把握しているのは教師ではなく学習者ですし、どんなコンテンツならより興味を引くかを知っているのも学習者本人なのですから、当然、何を勉強するかを決めるのも学習者自身であるべきです。実際、前回ご紹介したアンナさんを始め、ソーシャル・メディアを使って日本語を学ぶ冒険家たちも、彼らの日本語学習に関して誰にも管理されていません。つまり、何を学び、何を学ばないかは学習者自身が決めているのです。

 

こうして学習者が自分の学習を管理することを学習者オートノミーといいます。学習者オートノミーにはいろいろなレベルがあり、一斉授業の中にも学習者オートノミーを取り入れることはできますが、クラスの学習者が個別に学習計画を立てて自分で学習する形態を自律学習といいます。日本では桜美林大学などの取り組みが有名ですが、僕の前任地だった国際交流基金ブダペスト日本文化センターでも一斉授業のコースとは別に自律学習のコースがありました。

 

桜美林大学では学習目標や評価方法なども綿密に事前に考える例を紹介していますが、最近は無料のリソースも増えているので、僕はとりあえずいろいろ手を出してみる時期と、集中して勉強する時期に分けるぐらいしか指導していません。

 

 


一斉授業のアンラーンが不可欠


さて、話が長くなりましたが、日本語の授業で本格的にソーシャル・メディアの力を解き放つには、「学習者の全員が同じ内容を同じペースで学ぶ」という一斉授業の概念をアンラーン学びほぐす、もしくは意識的に忘れる)しなければなりません。

 

もちろん、従来の一斉授業でもソーシャル・メディアのコンテンツを読解教材に利用したり、クラスのグループをSNSなどに作って宿題を一斉に配信したりすることは可能です。しかし、それはGeorge Courosのいう「1000ドルの鉛筆」と同じです。つまり、1000ドルを払ってパソコンなどを買っても、鉛筆と同じようなアナログな授業しかしなければ、パソコンを授業に利用する意味がないのです。読解授業の教材にしたり、宿題の配信方法に利用するだけなら、鉛筆とまではいわなくても、コピー機で十分ですよね。

 

ソーシャル・メディアの本質は、連載第1回の記事に書いたように、「ユーザーが個人であること」と「双方向性」にあります。つまり、ソーシャル・メディアのコンテンツに直接コメントしたり、自分たちでコンテンツを作ってそれを教室外の日本語話者に読んでもらったりするのです。

 

そしてそのためには、今日ここまで話してきたように、教師がすべてを管理して同じ内容の授業をすることはあきらめ、自律的に学習者が学んでいくことを認めなければなりません。というのも、ソーシャル・メディアの世界はそれぞれのつながりの中でまったく違う風景に見えるからです。たとえば同じwww.facebook.comというURLでも、そこに表示される内容は人によってまったく違います。ご存じのとおり、誰とつながっているかによって表示される内容が違うからです。

 

また、仮に教師がソーシャル・メディア上の特定の場所に投稿先を指定して作文などを共有したとしても、その時のタイミングや学習者の書いた内容などによって、読者からのコメントの内容や量もまったく違ったものになります。まして、学習者のモティベーションを優先する場合には、自分の関心に基づいて好きなコミュニティの投稿を読んだりコメントしたりするようになりますから、目に入ってくる語彙や漢字なども当然、学生によって幅広い範囲に分散することになります。もちろん、「この漢字の読みを書け」などという一斉授業型のテストをすることもできなくなります。

 

 


少しずつ始めよう!


一斉授業しか体験したことのない先生にとっては、このような自律的な授業を始めるのはとても勇気のいることです。そこで僕がおすすめしたいのは、授業の一部だけを自律学習にすることです中でも一番簡単なのは、宿題プリントをやめて、好きな成果物を持ってこさせることです。テレビや映画を見て、その内容を3行にまとめてくるとか、そこで覚えた語彙や漢字のリストを作ってくるとか。日本人の友達と話しただけの人は、その友達とのセルフィーを撮影するだけでもいいでしょう。LINEなどでチャットした人は画面をキャプチャーしたらそれを成果物とすることもできます。

 

宿題のような目の届かないところで自律学習をさせるのが心配な先生は、1ヶ月に1度だけでも、自律学習の日を設定して、授業中に好きな勉強をしてもらうこともできます。これはルーマニアのブカレスト大学で実際に行われた例が報告されています。

 

また、クラス内のレベル差が大きくて困っている先生なら、優秀な学生に事情を話して自律学習を勧め、進度に遅れそうな学習者を積極的にサポートするようにするのもいいでしょう。その場合も優秀な学生を放置するわけではなく、授業の最初にその日の学習予定を聞き、授業の終わりには成果物を確認したり、もっといいリソースや学習方法があればアドバイスをしたりといったケアは必要です。教師からのケアが少なくなってしまう場合はなおさら、ソーシャル・メディアの力を利用して、積極的に日本語話者とかかわってもらうのがいいでしょう。

 

さて、ここまで読んで、「そんなことをして大丈夫なのか」「学生がロリコン親父の餌食になったりしないのか」という心配をされる方もいらっしゃることでしょう。そういう心配は当然ですし、必要でもあります。そして、そのためにはまず教師が自身でソーシャル・メディアを使いこなせるようにならなくてはなりません

 

来月の「ソーシャル・メディアを巡る冒険」では、そういうみなさんのために、よくある「仕事とプライベートを混同したくない」などの問題を解決し、教師もソーシャル・メディアを活用できるようになるための具体的な方法についてご紹介したいと思います。

 

 

参考資料

むらログ: トップを解放せよ!
http://mongolia.seesaa.net/article/398383943.html
(優秀な学習者に自律学習をさせることを提案しています)

むらログ: あなたは日本語の分かるオートマトンを育てあげたいのですか?
http://mongolia.seesaa.net/article/444783872.html

むらログ:George Couros『The Innovator’s Mindset』
http://mongolia.seesaa.net/article/440918991.html
(George Couros氏が「1000ドルの鉛筆」などについて書いた書籍の紹介)

 

近刊紹介
SNSで外国語をマスターする方法について筆者がまとめた書籍『冒険家メソッド』(ココ出版)が、近日刊行予定!!

 

《筆者》村上吉文 冒険家。これまで、国際協力機構(JICA)や国際交流基金からモンゴル、サウジアラビア、ベトナム、エジプト、ハンガリーなどへ派遣されてきた。2017年5月からカナダのアルバータ州教育省に勤務。ブログ「むらログ」(http://mongolia.seesaa.net/)では、日本語教育とICTに関する記事や、教育機関によらず自らの力で日本語を学ぶ「冒険家」たちについてのインタビューを発信している。

 

 

連載バックナンバー

ソーシャル・メディアをめぐる冒険 第2回「冒険家の実像」

ソーシャル・メディアをめぐる冒険 第1回「なぜソーシャル・メディアか」

 

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