1.背景

【第1回】外国につながる子どもへインタビュー!

最終更新日

 

背景

新聞やウェブニュースで、外国につながる子どもの中には、必要な日本語教育支援を受けられていないものもいる、という記事を一度は見たことがあるのではないでしょうか。私は、このような背景を知り、日本語教育関係者として何かできることはないかと考えました。そして、外国につながる子どもを直接支援することはできないが、携わっている支援者の方々の応援はできるのではないかと思い、外国につながる子どもが小学生、中学生、高校生といった各段階で、どのような支援を求めているのか(いたのか)を発信しようと、本インタビューの実施に至りました。そこで、オンラインウェブ会議ツールを用いて、JSL高校生のサミさんに60分ほどのインタビューを3回にわたって実施し、それらを聞き出そうとしました。しかし、小学校からの取り出し授業や地域日本語教室の話を語ってもらう中で「○○のような支援がほしかった」という話というよりも、他者、社会と関わる中ではぐくまれてきたアイデンティティの変容や自己の獲得といったものが見えてきました。と同時に、本インタビューにより「なぜ、人はコミュニケーションを図ろうとするのか」、「なぜ言語を学ぶのか」、「言語教育とは何なのか」といった私の日本語教育観が変容しました。そこで、本記事を含め5回にわたって、外国につながる子ども、サミさんの語りから得たことを記述していきます。読者のみなさまにとって、自身の言語観や教育観を更新するきっかけとなる記事になることを願っています。

構成

本記事では、まずインタビュー協力者であるサミさんがどのような人物なのかを紹介したあと、サミさんの行ってきた学習方法についての語りより、見えてきた複言語性について述べます。その後、上述したように、インタビューから見えてきたアイデンティティの変容や自己の(再)獲得をBamberg(2012)の提唱する枠組みを用いて記述します。

今回インタビューした、高校生のサミさん

サミさんは、2023年現在、高校1年生で、関東県内の公立高校に通っています。ご両親の仕事の関係で、小学校6年生の後半にスリランカから来日し、中学1年生がおわるまで社会と国語の授業時間に取り出し授業をうけていました。他の授業は、何を言っているのかわからず、ひたすらノートだけをとっていたそう。抜粋1は、来日当初、どのくらい日本語が理解できたのかを尋ねたときの語りです。

: スリランカから日本にやって来たとき、どのくらい日本語は?
サミ: 片仮名、平仮名しかできなかった、あいさつすらできなかったんです、学校の先生とはGoogleでやりとりしてました。先生が日本語を英語にして見せてくれて。

(抜粋1)

私は、サミさんが当時どのくらい日本語がわかっていたのかを聞き出そうと質問しましたが、その答えよりも、サミさんが小学6年生で、担任の教員が見せていたGoogle翻訳の英語を理解できたということに驚きました。サミさんの家庭内言語は、スリランカ語。サミさんは、小学生のころから、すでに「言語」に興味があり、来日する前から、英語と日本語(平仮名・片仮名)を学んでいました。日本の小学校に通うまでの間も、1人で平仮名と片仮名を勉強していました。小学6年生の時点で、言語学習に対する動機付けと学習を管理するメタ認知が備わっていたそう。来日当初は、スリランカ語と日本語の文字の違いに魅了されていました。抜粋2は「日本語はおもしろい」と感じた日本語教室についての語りです。

: 小学生で、日本語教室に入った時、どんな気持ちでしたか?
サミ: 入った時は、どんなことやるんだろうーっていう気持ちで、ちゃんとがっつり勉強すんのかなと思ってたら、楽しいことをやってくれるから、ちょっと安心しました。
: がっつり勉強したかった?
サミ : その時は全く(日本語が)わからなかったから、がっつり勉強したかったです。もう一つ通ってた日本語教室は、がっつりで、(:へー)子どもと大人でわかれてて、下の階は子どもで、上の階は大人で、(:うんうん)私よりも小さい子とか私より2~3歳上の子とかいて、楽しかったです。しゃべらなかったんですけど、(:ほー)シャイだったから。そこに先生がいっぱいいたんですよ、学年ごとにわかれてて、うちは1対1だったんですよね。
: そっちの日本語教室では、一対一で、、、
サミ : もうがっつり勉強でした。楽しかった。なんか初めて聞くことが多かったから、結構すぐ覚えちゃったんですよね((笑))おもしろくって。
: え、なーに、例えば?
サミ: 例えば、ごちそうさまとか、おもしろいなーと思って(:へー)その教えてくれる先生が、なんか好きだったんですよ。かわい私いし、おもしろいし、明るいし、好きだったんですよね。
: そこでがっつり勉強するのが楽しかったんですか?私わからない((笑))
サミ : よく言われます。興味あるっていうか、そういうのが好きなんです。日本語はやく勉強したいと思って、これできたらかっこいいな~と思って((笑))。漢字が好きなんですよね、画数多い漢字が好きなんです。さいとうのさいとか、、、画数多いのが好き
: えーおもしろい。
サミ: よく言われます、でもおもしろい形だなーと思って、線と丸、、、ほぼ線で書けるじゃないですか、わたし、母国の字は全部まるいんですよね、だから、線だけで書けるのおもしろいなーと思って。

(抜粋2)

サミさんは、日本語教室で初めて聞く日本語だけでなく、漢字の魅力にも気づき始めていました。さらに、自身の理想像を描き、それに近づきたいという気持ちで勉強していたこともわかります。加えて、スリランカ語の文字と日本語の文字を比較し、スリランカ語にはないストロークに魅了されています。そして、一見、抜粋2だけを読めば、サミさんが母国にはない「線」を用いる日本語の特殊な文字に魅了されている少女として読み手に映るかもしれません。しかし、抜粋3より、それが、複言語・複文化環境で育ったサミさんだからこそもてる感覚であることがわかります。抜粋3では、漢字ができるようになりたい理由について語っています。

サミ : ドラマとかも、字幕で見てたんですけど、言っていることが分からないとき、字幕にしてたんです。でも、漢字が多くて読めないじゃないですか、だから、読めるようになりたいなーと思って。
: なるほど。
サミ: 韓ドラとか((笑))
: あー、ドラマって韓ドラかー。韓国語で聞いてわからないから、日本語の字幕をつけるけど、それもわからないから勉強したいっていう?
サミ: そうです、日本のドラマはあんまり見なかったです。やっぱり、日本語の字幕だからできるようになりたいなって。
: おもしろいなー。じゃあ韓国ドラマはスリランカ語を通さないで、日本語字幕で見てたんですね?
サミ: そうですね。

(抜粋3)

サミさんが言っている「ドラマ」を私は、「日本のドラマ」であると思い込んでいました。しかし、サミさんは韓国ドラマのことを指していたことに気づきます。ここでは、「ドラマ」が何の言語で展開されているものであるかをサミさんはあえて指摘していません。日本語学習のリソースとして見るドラマ=日本のドラマであると捉えていた私の固定観念が明らかになったとともに、サミさんは、自分の中で複雑に混ざりあっているものとして、言語を捉えていることがわかりました。サミさんは、中学のころに韓国ドラマを見始め、高校生の現在は、タイやトルコのドラマも日本語字幕で見ているそう。

まとめ

以上より、サミさんの日本語の独習方法が明らかになりました。抜粋1、2、3より、サミさんは、自分の好きなものや興味のあるものを通して、個人のもつ能力と日本語を相互に作用させながら、日本語を学んでいました。誰かがサミさんに学習方法を教えたわけではありません。サミさんは、自分で自分に合う学習方法を見つけ、日本語を自律的に学んでいました。そして、決して文法を積み上げながら日本語を学んでいたのではなく、複言語環境における生活の中で、その生活全体に自身が関わることによって日本語を身につけていました
年少者のことばの学びは、言語・認知・アイデンティティの形成に影響を与えます。そのような大事な時期に成長していく年少者には、その人がもつ複言語を資源として包括的に捉え、その資源と日本語を絡めあいながら、自分の好きなことや自分の興味のあることを通して、学べるような支援が求められるのではないでしょうか。

ところで、上述したように、サミさんへインタビューをしていると、その語りの中に、サミさんのアイデンティティが表出していました。そこで、その表出したアイデンティティを考察するために、Bamberg(2012)の3つの「ジレンマ」の枠組みを用いることとします。Bamberg(2012)は

1.sameness⇔difference (同質⇔異質)
2.agency⇔passivity/ recipiency(能動的⇔受動的)
3.gradual (continuous) changes or radical (discontinuous) breaks (連続的⇔非連続的)
(訳は村田, 2020)

の3つのジレンマを「アイデンティティ構築を捉えるための指標として提案」しています(村田2020,p.3)。よって、次回の記事より以上の方法を手がかりとして、サミさんのアイデンティティを考察します。

参考文献

Bamberg, M. (2012). Why Narrative?. Narrative Inquiry. 22(1). 202-210.
村田和代(2020)「日本在住日系人へのインタビューナラティブの談話分析」秦かおり・村田和代(編)『ナラティブ研究の可能性―語りが写し出す社会』ひつじ書房.

 

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外国につながる子どもに対する日本語教育支援者の不足について、新聞やウェブニュースで頻繁に目にする。筆者は、このような背景より、外国につながる子どもが小学生、中学生、高校生といった各段階で、実際にどのような支援を求めているのか(いたのか)をウェブ会議ツールを用いてオンライン上で180分ほどのインタビューを3回にわけて実施し、聞き出そうとした。しかし、学校での取り出し授業や地域日本語教室の話を語ってもらう中で「○○のような支援がほしかった」という話というよりも、他者、社会と関わる中で、動的にはぐくまれてきたアイデンティティや自己の獲得といったものが見えてきた。と同時に、日本語教育に携わって5年になる筆者の日本語教育観が、今回のインタビューにより「なぜ、人はコミュニケーションを図ろうとするのか」、「なぜ言語を学ぶのか」、「言語教育とは何なのか」といったことを考えながら変容してきた。そこで、本記事を含め5回にわたって、外国につながる子どもの語りから得たことを記述していく。読者のみなさまにとって、自身の言語観や教育観を更新するきっかけとなる記事になることを願っている。 本記事では、まずインタビュー協力者であるサミさんがどのような人物なのかを紹介したあと、サミさんの行ってきた学習方法についての語りより、見えてきた複言語をもつことについて述べる。その後、上述したように、インタビューから見えてきたアイデンティティの変容や自己の(再)獲得をBamberg(2012)の提唱する枠組みを用いて記述する。