日本語教師の履歴書 第12回 土井佳彦さん

最終更新日


vol.12 「人をつなぐ、地域を本業にする、自分のスタイルを作る」土井佳彦さん

これから日本語教師を目指す人に、日本語教師の働き方にはどのようなものがあるのかを知ってもらうための連載。日本語教師や、日本語教育に関係する職に就いている人、日本語教育の勉強はしたけど別分野の仕事に就いた人、日本語教師から転職した人、転職して日本語教師になった人など、さまざまな形で日本語教育に携わる方々にお話をうかがい、日本語教師のキャリアについてみなさんと考えていきます。
今回は多文化共生社会づくりに向けて活動する特定非営利活動法人(NPO)の代表をされている土井佳彦さんです。


《今回の「日本語教師」》土井佳彦(どい・よしひこ)さん 1979年、広島市生まれ。岡山県内の大学で日本語教育を学び、卒業後に大学や専門学校で教壇に立つ一方、地域の日本語教室でもボランティアとして活動を始める。大学院進学を機に愛知県に移り、日中は企業研修生に日本語を教え、夜に社会人大学院生らと教育ファシリテーションについて学ぶ。2008年度から4年間、豊田市が委託する名古屋大学「とよた日本語学習支援システム」でシステム・コーディネーターを務める。現在は、それと同時期に設立したNPO多文化共生リソースセンター東海で代表理事として東海地域の多文化共生社会づくりに取り組む。好きなアーティストはB’z。尊敬する人は稲葉浩志。


《聞き手》瀬尾匡輝(せお・まさき/茨城大学准教授)、瀬尾悠希子(せお・ゆきこ/東京大学講師) 日本語教育を学ぶ大学生たちの「『仕事』としての日本語教育をイメージすることが難しい」という声を受け、いろいろな「日本語教師」に話を聞きに行くことに。


2019年11月2日、名古屋市内の貸し会議室で約2時間にわたって、瀬尾匡輝がインタビューさせていただきました。

「漠然と『日本語教師になろう』って思っていた」―大学で日本語教育を学び、卒業後すぐに日本語教師に

瀬尾ま 土井さんが日本語教育に携わるきっかけは何だったんですか。

土井 高校生のとき、海外で生活したいっていう漠然とした夢がありました。旅行とかじゃなくて、一つの国に何年か暮らして、その国についてある程度わかった段階でまた次の国へっていうように、いろんな国を転々とする生活がしたいっていうイメージを持っていたんです。それで、どうしたらその夢がかなうかなって考えていて、たまたま高校の図書館で日本語教師について書かれている本を見つけました。それで、日本語教師ってどうやってなるんだろうって調べたら、大学で学んで資格を取ればいいんだとわかりました。僕は一つのことを突き詰めてやるより、いろんなことを広く学びたいなとも思っていたので、いろんなことを多面的に学ぶ教養学部の中で日本語教育を副専攻にできる大学を隣の県に見つけて、迷わずそこに行くことにしました。

瀬尾ま 学生のときから日本語教師を目指されていたんですね。

土井 そうですね。日本語教師になるために大学に行った、みたいな感じですね。でも、日本語教師のイメージをはっきり持たないまま、ただ漠然と「日本語教師になろう」って思っていたので、大学で何を勉強したかって言われると、正直ほとんど覚えていないです(笑)。だけど、「将来何になるの?」って言われたら、「日本語教師になる」っていうことだけはブレなかったです。

瀬尾ま そうなんですね。授業はあまり覚えていないということですが、それでも大学4年間でブレることなく日本語教師になろうと?

土井 ええ。日本語教師以外に「これだ!」「やりたい!」って影響を受けたものが特になかったんでしょうね。でも、日本語教師になるにしても学生時代にやれることはいろいろやりたいなと思って、アルバイトはいろんなことをやったんですよ。たぶん10種類以上はやったんじゃないかな。

瀬尾ま へー。

土井 コンビニとか飲食店とか、いろんなことをやったんですが、「一生コンビニやりたいな」とか、「一生レストランで働きたいな」っていう気持ちにはならなかった。だから、日本語教師になることに迷いがなかったんですよね。

瀬尾ま なるほど。副専攻課程の同級生も日本語教師になる人は多かったんですか。

土井 僕の同期は16、17人ぐらいだったんですが、初めから本業として日本語教師になりたいって言ってたのは僕だけだったと思います。大学に留学生別科があって、僕が卒業するときにそこの非常勤の先生がたまたま1人辞めることになって、せっかく大学で日本語教師の養成をやっているんだから、1人ぐらい卒業生を入れてはどうかっていう話が先生たちの間であったみたいなんです。それで、ゼミの先生が「希望者はいるか」ってみんなに聞いたんですけど、僕しか手を挙げなかったんですよ。で、候補に入れといてあげるから、やる気があるなら履歴書を出しなさいって言われて、出しました。

瀬尾ま へー。

土井 僕は当時4年生で、現場で経験を積みたいと思っていました。でも、新卒で就職の機会はなかなかないって言われていたので、機会があるならやってみたいって先生に言ったんですよね。

瀬尾ま それまで教えた経験がないまま教壇に立たれたと思うんですが、どんな感じでしたか。

土井 もうびっくりしましたね。大学の日本語教師養成プログラムでは、総合教科書を使って日本人学生を相手に模擬授業をしてみるっていうのを1、2回ぐらいしかしたことがなかったんですよ。それも1人1回15分。そんな状態だったにもかかわらず、いきなり「来期から読解と聴解を教えてね」って言われて、「それ、何?」みたいな感じでした。

瀬尾ま そんななか、どうやって教えられていたんですか。

土井 他の非常勤の先生にどんな教科書を使っているか教えてもらって、そのテキストを1課ずつ進めていきました。教科書にはだいたい指導書がついているので、それを見ながら、見よう見まねでやっていました。

瀬尾ま それは結構大変ですね。

土井 やっぱり他の先生も僕を見ていて心配だったんでしょうね。僕は1年目は読解と聴解を週に2コマだけ教えていたんですが、他の非常勤の先生に、それだけでは今後のステップアップにはならないよって言われました。隣の市に養成講座を修了したりプロとして日本語を教えていたりする人たちがやっているボランティア教室がある。そこに行ってみてはどうかとアドバイスされたんです。そこは市販の総合教科書を使って日本語学校みたいに教えていたので、勉強になるんじゃないかということでした。それで、そこに行っていろいろな経験をさせていただきました。日本語教師の力は、そこでついたと思います。

瀬尾ま へー。

土井 日本語教師になって2年目には、日本語学校でも働いているボランティアの方に、「うちの学校で教師の求人が出てるから、よかったら受けてみない?」って言われて、面接と模擬授業を受けたら運よく受かりました。そして、大学の別科と専門学校の日本語科を掛け持ちして、週に数コマ日本語を教えさせてもらうことになりました。その半年後には、退職される先生の代わりにクラス担任も持つことになりました。結果的に、日本語教師になって2年目の後半からは週17コマぐらい教えることになっていました。そうすると、当時の日本語能力試験でいう4級から1級まで全部教えるし、文法、読解、聴解、作文といった技能も全部やるしというように、一通り教えるチャンスをいただけたのはラッキーでしたね。

日本語教師時代

「システム・コーディネーターとして働かないか?」―仕事として地域の日本語教育に携わる

土井 非常勤を3年やったんですが、そこでいったん区切りをつけて大学院に行くことにしました。

瀬尾ま それはどうしてですか。

土井 勉強会や研修会に参加すると、先輩の男性教師から「男が日本語教師として食っていくんなら、学部卒だとだめだぞ」とか、「とにかく最低でも院に行け」って言われていたんですよ。でも、僕はとにかく経験を積みたいって思って教え始めていたので、当時は大学院に進むことにあんまり興味がなかったんです。でも、日本語を教えているうちに、やっぱりもっと勉強しなきゃなっていう思いがどんどん高まってきました。

瀬尾ま 勉強しなきゃというのは?

土井 僕が教えていた日本語学校の卒業生が、日本の大学に進学してから連絡をくれたんです。その学習者は、日本語能力試験1級に合格していて会話力も問題ないレベルだったんですが、大学の講義はよくわからないし、日本人とコミュニケーションをするのも難しくてなかなか友達ができないと言っていました。それを、自分の日本語力不足が原因だって悩んでいたんですよね。僕が当時教えていたことをふりかえると、「これが試験に出るぞ」と言って受験勉強に必要なことは教えていたけれど、大学がどういうところで、日本人とどうコミュニケーションをとればいいかっていうことはまったく教えてもいなかったし、それが必要なんだと考えてもいませんでした。いつの間にか“進学予備校の先生”になっている自分に気がつきました。それで、これじゃだめだ、これが僕のやりたかったことじゃないと思って、大学院をいろいろ調べたら、愛知県の南山大学大学院に教育ファシリテーションを学ぶ専攻ができたことを知りました。教育ファシリテーションっていうのは、学ぶ人がその主体性を発揮できるように、さまざまなスキルを用いて支援することなんです。つまり、教師が一方的に授業をリードしていくんじゃなくて、学習者一人ひとり、またはクラス全体が持っている力を引き出すサポート役といったイメージです。僕は、学生に対する向き合い方を変えたいと思ったので、人との関わり方をどうするのかということに興味を持って、この大学院に進むことにしました

瀬尾ま 問題意識を持って、大学院に進まれたんですね。

土井 進学するには、学費を貯めたり試験勉強をしたりしないといけなかったので、愛知に来て1年間は自動車の組立工場で期間工をしながら準備をしました。でも、日本語教師を3年やったあとだったので、外国人とかかわらない生活がなんかストレスになってしまって。期間工を始めて2週間ぐらい経ったときに、たまたま町の広報誌で「日本語ボランティア募集」というのを見つけて、そこに行ってみたんです。そうしたら、そこでは日本語能力試験なんて言葉も出てこなくて、国際結婚で日本に来て、家族やお姑さんと日本語で話ができるようになりたいとか、なかなか日本での生活になじめないだとか、今でいう「生活者」の方々ばかりで、「こんな世界があるんだ」と思ったんですよ。

瀬尾ま そのときに、今の仕事につながることと出会われたんですね。

当時通っていた地域日本語教室

土井 はい。半年ぐらいして、そこから少し離れた地域の日本語教室にも参加させてもらうことになりました。そこも日本語教室と銘打ってはいたんですが、実質的には老若男女が集う地域住民の交流の場になっていて、ごみの捨て方とか、夏休みにみんなでこんなことをしようということとかを話して、人が暮らしていくうえで必要なことを学んでいくような場だったんです。そして、「先生」や「生徒さん」ではなく、互いに名前で「〇〇さん」と呼び合っていて、僕が高校生のときに海外に行きたいと思っていたのは、こういうコミュニティの中での生活がしたかったからなんだろうなって思ったんです。この教室が豊田市にあって、翌年に南山大学(名古屋市)に進学してからも毎週通い続けました。いつしか、このボランティア活動を仕事にできたらいいのになと思うようになっていたんです。

瀬尾ま ボランティア活動を仕事に?

土井 ええ。こういう地域の日本語教育は、ほぼ無償でやっているものだったので、趣味でやるしかないかなと思っていたんです。でも、2007年にトヨタ自動車が地域貢献として、自社の工場がある自治体に寄付を出すことになって、豊田市はそのお金の一部を日本語教育に使うことに決めたんですよ。つまり、それまでボランティアに頼っていたものを、市が公的な施策として展開していくことにしたんです。豊田市内には日本語教育の専門機関がないので、当時の名古屋大学の留学生センター(現・国際教育交流センター)がその事業を委託されることになりました。2007年に豊田市内の日本人・外国人を対象に、実態調査を行いました。そのとき、僕はアルバイトで調査の集計のお手伝いをしていて、2008年度から委託されたプロジェクトが本格的に始動するとなったときに、システム・コーディネーターとして働かないかとお声がけをいただいたんです。地域の日本語教育を本業でやらないかという話だったので、これはもう願ったりかなったりで、「やります!」って言って、それから地域の日本語教育にフルタイムで携わるようになったんです。

瀬尾ま システム・コーディネーターとは、どんなお仕事だったんですか。

土井 システム全体をコーディネートするということで雇われたんですが、僕も初めて聞いた職種だったので、「何をするんですか?」って名古屋大学の先生に聞きました。そうしたら、「必要だと思ったことを全部やってください」って言われました(笑)。

瀬尾ま (笑)

土井 豊田市も広いので、日本語教室がない地区があったり、平日の日中しか開かれていなくて働いている人は行けない教室もありました。だから、まず日本語教室にアクセスできない人のために新しい教室を作っていくという使命がありました。教室を作るためにはコーディネーターや会話相手となるパートナー(いわゆる、ボランティア)が必要で、人を集めて、その人たちを研修しなければいけませんでした。だから、最初は場づくりと人づくりがメインの仕事でしたね。

瀬尾ま なるほど。

土井 豊田市の外国人の半数以上は南米出身の日系人で、日本語教育を受けずに日本に来ていたんです。留学生のように来日後に学校で勉強したり、技能実習生のように最低限の日本語を学んできているわけではありませんでした。ですので、豊田市の公的なボランティア教室では、とにかく生活者に向けた日本語教育をやろうっていうことになりました。そうすると、日本語が「できる」・「できない」という線引きはどうするのかということになりますよね。こうして、豊田市ならではの新しい能力判定を作らなきゃいけないということになっていきました。

瀬尾ま やりながら、プロジェクトがどんどん広がっていく感じなんですね。

土井 はい、そうです。地域に何が必要かを僕1人で考えることはできないので、現場を回って声を聞いて、足りないものや、これがあったらいいと言われたものを1つずつ形にしていこうと考えていました。また、日本語教室に週1回通うだけでは日本語が上手になるわけではありませんよね。だから、教室以外の学習機会を作ろうということで、ウェブやスマホを使って日本語を学ぶことができるe-ラーニング教材も作りました。そして、これらが「豊田市がやっている珍しいこと」で終わるんじゃなくて、他の地域でも「こういう取り組みをうちでもやりたいよね」と広がっていってほしいと思い、ウェブサイトなどを使って積極的に発信しました。

システムで最初に開設した「企業内日本語教室」

瀬尾ま いろいろな活動をされていたんですね。

土井 ええ。システムの中に、場づくり、人づくり、能力判定づくり、eラーニングの教材づくり、広報活動という5つのプロジェクトチームを作りました。そして、県内のいろんな方々に参加してもらって話し合いながら形にしていくっていうのが僕の仕事でした。プロジェクトに参加してくれる人たちも基本的には無償にならないように、グループごとの会議では会議謝金や交通費も支払って、「これは仕事なんだよ」ってみんなに思ってもらえるようにしていました。

瀬尾ま 2008年にコーディネーターになられて、どれくらい働かれていたんですか。

土井 4年です。

瀬尾ま 4年だけなんですか。

土井 はい。同じ人が長くやりすぎると、結局“その人ありき”の仕組みになってしまうんですよ。それは「システム」とは言えないと僕は思っています。例えば、パソコンのキーボードは誰が「A」を押しても「A」と出るじゃないですか。「A」を押して「B」が出たら、それはシステムが壊れているってことですよね。もちろん時代によってアレンジは必要ですけれども、基本部分は人が変わっても動いていく仕組みを作らないと「システム」とは言えないと僕は思うんです。なので、「システム・コーディネーターをやってくれないか」と言われたときに、「やりますけど、2年で辞めます」って最初から言っていまし

瀬尾ま え! そうなんですか。

土井 はい。完璧に作り上げてしまうと、次の人がやりづらくなっちゃうので、2年でとりあえずできるところまでやりますけど、その後は次の人にと言って始めました。次の人を育てながらやらないといけないっていう思いが最初からあったので、システム・コーディネーターをしながら、プロジェクトにかかわってくれている人の中から次の人を探していくみたいな感じでやっていました。結果的には、いきなり次の人に「はい、全部自分でやって」と任せたら大変なので、2年経ったときに次の人をフルタイムで雇って、僕はパートタイムになって働く日を週に4日、3日…と徐々に減らしていって、次の人をサポートする形で携わりました。そして、後任の人が2年目になった時点で僕は抜けて、あとはその人に1人でやってもらうようにしたんです。

瀬尾ま 安定した職に就きたいと考える人が多いと思うんですが、自ら2年の任期を決められたのは、すごいですね。

土井 今言ったように、とにかくずっとやっていちゃいけないっていう考えがありましたから。それに、一緒にプロジェクトを立ち上げた名古屋大学の先生たちも、地域の日本語教育をいつまでもボランティアだけでやるのではなく、これを本業にする人が増えていかなきゃいけないっていう問題意識があったんですよ。もちろんボランティアをしたい人がいることはいいんですけど、地域の日本語教育はボランティアでしかできないから私には無理だっていう同業者が周りにいっぱいいたんですよね。だから、豊田市が本気でお金もつけてやっていこうっていうなかで、地域日本語教育に本業として携わるポジションが必要だと、発信していくのも土井君の仕事の一つだよって言われて、僕もそうだなって思いました。

瀬尾ま なるほど。

土井 当時は他で地域日本語教育を本業でやっている人はいなかったので、すごく珍しがられたり、羨ましがられたりしました。でも、すごく孤独だったのも事実です。だから、「私も本業でやっているんです」っていう人がもっと増えて、「これってどうしたらいいかな」とか、「うちはこうでしたよ」って話せる仲間がいないと僕も絶対つぶれてしまうなと思って、地域日本語教育に本業で携わる人をどんどん増やしていきたいという思いがありました。

瀬尾ま 今は地域日本語教育に本業として携わる人は増えてきたんですか。

土井 そうですね。5年とかの任期付きが多いですが、コーディネーターという立場としてフルタイムで雇われる人が増えてきました。でも、当時は、国際交流協会の職員が日本語教育事業を担当しているというのが多く、地域日本語教育で食べている日本語教師はほとんどいませんでした。

「とにかく話しましょう」―NPOで地域の場づくりをする

土井 豊田市のシステム・コーディネーターをやめてからは、多文化共生リソースセンター東海というNPOでフルタイムで働いています。実は、豊田市のプロジェクトが始まったと同時に、このリソースセンターもスタートさせていて、僕は代表をしていたんです。でも、システム・コーディネーターを本業としていたので、リソースセンターは代表ではあったんですが、ボランティアのような形でやっていました。ただ、このリソースセンターをやり始めると、こっちにもどんどんハマってきてしまって(笑)。

瀬尾ま そうなんですね。

土井 豊田市のプロジェクトは多文化共生という広い枠はあったんですが、実際は日本語教育が中心でした。でも、リソースセンターは日本語教育だけではなく、いろいろなことをやっています。

瀬尾ま では、仕事の内容も大きく違うんですか。

土井 もともと僕は日本語教育をやってきていたので、リソースセンターでも日本語教室の立ち上げや日本語ボランティアの研修を依頼されることは多々あります。でも、外国人を直接支援するのではなく、外国人を支援している人たちの活動をサポートするという、「中間支援」を行うことがリソースセンターの主な目的です。そして、「多文化共生リソースセンター東海」という名の通り、東海地域を広くカバーしているので、豊田市内だけでなく愛知県を中心に岐阜県や三重県、静岡県西部ぐらいまでが日頃の活動範囲で、ご依頼があれば他の都道府県におじゃますることもあります。

瀬尾ま 具体的にはどのような仕事をされているんですか。

土井 リソースセンターを立ち上げ、活動が本格化した2009年から3年間ぐらいは、愛知県からの委託を受けて県内の外国人が多い地域をまわって日本人住民と外国人住民の間にある課題を調査し、改善策を提言したりモデル的に実施したりするということをしていました。

瀬尾ま へー。

土井 でも、地域で起きているいろんな課題やその要因について、僕らも何を国が決めて、何を自治体が決めて、何を地域住民で決めているのかをまだ詳しく理解していなかったので、とにかくいろんな提言をしつつ、「それはうちじゃなくてあっちに言ってください」みたいに言われ、「あ、そうですか」といろんなところに行きましたね。

瀬尾ま なかなか大変そうですね。

土井 そうですね。でも、現場の状況や声がどんなものなのか、すごく勉強になりました。僕も含めて日本語教師は基本的に外国人が日本語を覚えれば地域で生活しやすくなるだろうって考えがちなんですけれども、いくら外国人が日本語ができるようになっても変わらない、日本人が彼らのことをもっと理解しなきゃいけないこともあるんだっていうことを常に考えるようになりましたね。

瀬尾ま 日本人側はどんなことを理解しなきゃいけないんでしょうか。

土井 一般的には、外国人が日本語や日本のルールを覚えるなどして日本に適応すればいいって考える人がやっぱり多いんですよね。いわゆる“同化”思考です。そういう人たちに「じゃあ、外国人はどこでその日本語や日本のルールを覚えたらいいんですか」って聞くと、「行政が日本語教室を開けばいいんだ」って言って、自分たちがそこにかかわろうという人はほとんどいなかったんですよね。でも、外国人に聞くと、近所や職場の人に教えてもらいながら学んでいきたいと考えている人が多いということが、僕たちが行った調査からはわかっていました。
それで、例えば外国人も会費を払って自治会に入ってるのに、回覧板が日本語で回ってくるだけで何もわからないから入っている意味がないっていう声があるということを、日本人住民に伝えたりしました。すると、「たしかにお金払って訳わかんないもの持って来られるだけだったら、そりゃ困るよね」、「こっちも日本語教室開くまではいかないけれど、コミュニケーションのこと何か考えたほうがいいよね」っていうふうに思ってくれる人もいて。

瀬尾ま なるほど。

土井 あとは、ある団地で外国人は集会所を使えないっていうルールがあったんです。まだ外国人が集会所を使えたころにパーティーをして片付けをせず帰ったっていうので、当時の自治会で外国人は使用禁止にしてしまったんです。でも、それは10数年前のことだって言うんですよ。で、「それ以降、外国人に集会所の使い方を教えたんですか」って聞いたら、禁止になっているから教えたことはないということでした。だから、1度みんなで話し合いませんかって言って、外国人を含んだ住民に集まってもらったんですよ。そうしたら、外国人が「使いたいけど、なんで使えないのかがわからない」と言うので、「昔こういうことがあった」と伝えると、「ちゃんと片付ければいいってことですよね」って言って、自治会の人も納得して、それからは使えるようになったんです。たったそれだけのことなんですが、それぐらい地域ではお互いに接点がなかったんですよね

集会所での交流イベント

瀬尾ま 接点を作って、日本人の意識を変えていくことっていうことですね。

土井 そうですね。でも、「こうしてください」って言うだけで変わるわけではないので、互いに思っていることがあるんだったら、とにかく1回共有してみませんかっていうことを言っていますね。お互いにどう思っているかがわからないなかで解決策を考えることはできないなと思っていて、「とにかく話しましょう」みたいな感じでやっています。僕たちは県の委託事業を受けていたので、「愛知県としてこういうことを考えているので、僕たちもお手伝いをさせてもらえませんか?」って行くと、「県がそう言うんだったら仕方がないな」みたいな感じで受け入れてくれて、そういう点では行政の“後ろ盾”というのはとても大きかったです。

瀬尾ま やっぱりそういうのも大事なんですね。

土井 それに加えて、僕は大学院で教育ファシリテーションを学んだので、場づくりをしたり、きっかけづくりをして、どうやって当事者同士がうまく考えていけるようにするのかということには、大学院での学びが役立ったかなって思いますね。最初は、それを日本語の授業に生かそうと考えてはいましたが、リソースセンターを始めてからは、地域住民同士や住民と行政との場づくりに生かせるなと思うようになりました。

瀬尾ま 日本語教師をしていた経験が、今のリソースセンターの活動に役立つことはありますか。

土井 2つありますね。ひとつは、研修会や講座の講師を務めるとき。1時間の講義で何を学んでもらいたいかを、どのように組み立てて、どう伝えるのかを考えるのって日本語教師が普段やっていることですよね。教案作ったり、教材準備したりするのと同じ。そういうことができるのは、教師の経験があったからかなと思います。

瀬尾ま 確かに。

土井 もうひとつは、いわゆるフォーリナートーク的なことがすごく役立っていますね。僕は外国語が全然できないので、外国の方とは日本語でコミュニケーションをとっているんです。でも、日本語教育を勉強したことがないスタッフが日本語で話すと、びっくりするぐらい通じないんですよね。だから、僕が間に入って、日本語から日本語に通訳をしているんですよ。

瀬尾ま 日本語を日本語に通訳する?

土井 はい。大きめのジェスチャーをつけて、学習者に応じたわかりやすいことばを選ぶとか、相手の理解度を確認しながら会話を進めるとか、日本語教師がよくやるコミュニケーションスタイルは、学習者でない一般の外国人住民とコミュニケーションをとるときにも、とても役立ちますね。

「お金はもらうものじゃない、稼ぐものだ」―受け身ではない姿勢が大切

瀬尾ま こういったリソースセンターというのは、ニーズがあるんですか。

土井 多文化共生のNPOは、だいたい現場を持っていて、直接外国人を支援するところが多いんですが、うちのように中間支援を専門にやっているのは、僕が知るかぎりでは全国で1つだけみたいなんです。そして、最近は東海地域以外からもお声がけをいただくようになったので、中間支援的なニーズっていうのは一定程度あるのかなと思います。

瀬尾ま 東海だけではないんですね?

土井 僕たちは、東海地域の多文化共生社会づくりに貢献するっていうのをミッションにやっているので、基本的にはそこからあまり広げないようにしているんです。でも、愛知県には54の市町村があって、岐阜、三重、静岡を合わせると約150の自治体があって、地域によって本当に実情が違うんですよ。愛知県でも外国人のほとんどいない地域もあるし、日系人が多い地域、留学生が多い地域、技能実習生が多い地域、農村花嫁が多い地域っていうように、全然違うんです。
最初は、ある町の取り組みを似たような状況にある他の町に紹介するとうまくいくかなと思っていたんですけど、実際にやってみると地域によって事情が違うことを改めて実感して、愛知だけで活動していてもうまくいかないなと思うようになったんです。例えば、愛知のアジアからの農村花嫁が多い町の問題解決策を県内で探しても見つからないんですが、仕事で山形にお招きいただいたとき、そちらでは農村花嫁が多い地域がたくさんあって、そこでの取り組みの話を聞くと、これは愛知でも生かせそうだなと思うことがあったんです。逆に、愛知の外国人集住地域の取り組みを他の地域で話すと、それが勉強になると喜ばれたりすることもあるんです。そういったつながりを考えて、今は他県のお仕事もできるだけ受けるようにしました。そうすると、どんどん全国にネットワークが広がって、ノウハウが共有されていることを実感します。

瀬尾ま 現場を持たず、中間支援に特化しているのには何か理由があるんですか。

土井 いち日本語教師、日本語ボランティアとして7年間活動していた自分がそうだったんですが、現場にいると、目の前の課題を何とかすることで精一杯で、なかなか視野を広く持って大きな視点から考えられなかったんですよ。ただ、現場から離れすぎると現場の状況がわからなくなってしまって口だけの評論家になってしまうこともあるので、今でも仕事は中間支援に徹して、プライベートではボランティアの1人として現場で活動したりすることもあります。

瀬尾ま リソースセンター東海では、今はどのような支援をされているんですか。

土井 うちは、基本的に現場から相談を受けて、行政に提案して事業化してもらったり助成金等の外部資金を得たりして、現場の人と一緒にプロジェクトをやるという形をとっています。そして、現場で抱えている課題をその人たちが自分の手で解決していけるようお手伝いをします。その中で、あえてテーマは絞らないようにしているんです。例えば僕は日本語教育が専門なんですが、それしかやっていないって思われたら、多様な活動をされている現場の方々が、日本語教育以外の相談に来なくなってしまうじゃないですか。だから、相談を受けて僕ができることはお手伝いしますが、僕にできないことだと、他に専門の人を探してきて紹介してつなぐということをやっています。僕にできることが限られている分、外部の力を借りることのほうが圧倒的に多いです。だから、基本的には、多文化共生に関して何かあったら遠慮なく一声かけてくださいねっていう団体です。

瀬尾ま 日本語教育以外には、どんな相談がありますか。

土井 ここ5年で一番多いのは「やさしい日本語」を含めた地域日本語教育関連ですが、災害時の外国人支援も同じくらい多いです。これは、僕自身が東日本大震災をきっかけに支援活動にかかわるようになって、その後も各地の災害時の取り組みにかかわっているからかもしれません。また、主に他のスタッフがやっていることですが、外国人の子どもの健全育成ということで、特に発達障害を抱えている、もしくは発達障害が疑われる外国人のお子さんとその家族を支援するというニーズが高まってきています。あとは、日本人・外国人問わず、多文化共生分野で活動しているNPOに対して、法人格取得や助成金の申請に関する事務的なサポートとか、最近では多文化共生に関心のある企業からの相談、日常的には行政や国際交流協会等からの事業相談など、本当にいろいろあります。どれも外国の人たちが日本社会で充実した生活が送れるお手伝いをしたいと考えてやっているので、相談があればできる限り対応するようにしています。

瀬尾ま 本当にいろんなテーマがあるんですね。

土井 本当はもっとたくさんのメンバーで手分けしてやらないといけないんですが、うちの職員は僕を含めて2人しかいなくて…。経理などはアウトソーシングで外部にお願いをしていて、大きなプロジェクトは人件費もつくのでパートタイムをお願いすることもあります。でも、まだまだ小さな規模です。

設立5周年で仲間たちと

瀬尾ま 経営的にはどうですか。

土井 ここ5年連続で黒字ではありますが、本当にミニマムでやって何とか赤字になっていないっていうぐらいなので。

瀬尾ま NPOをされるようになってからは、経営者の目線を持つようにもなられたんですか。

土井 ボランティアでしかやれない、食っていけないというのではなく、NPOでもちゃんと食べていけるし、専門的にかかわっていけるところを作りたいなと思ってこの団体を作ったので、スタッフが食べていけないということになれば、それは失敗になってしまいますよね。だから、この代表という役割を通して経営のことも学べていると思います。やっぱり日本語教師だけをやっていたら、授業を何コマするといくらもらえるという感覚でしかいなかったと思うんですよ。実際、うちのNPOにも「土井さんのところに入ったら月にいくらぐらいもらえますか」と聞かれることがあるんですけど、そこには「自分はいくら稼げるのか」っていう視点が抜けているんです。お金はもらうものだと思っている人が多いんですが、「違う。稼ぐんだよ」って僕は言っています。その差はすごく大きくて、稼げる人を増やしていきたいなと思いますね。

瀬尾ま NPOに携わるのは、どういう人が向いているんでしょうか。

土井 いろんなNPOがあるので一概には言えないのですが、一番は社会課題に関心があることが大切です。うちがやっていることをただ手伝いたいという人は、やはり難しいです。時々大学の先生の紹介で、ボランティアに来る学生がいるんですが、「どうして来たの?」って聞くと、「先生に言われたから来ました」みたいに言われて…。で、「うちが何やってるか知ってる?」って聞いても「いや、知りません」って答えたり、「君は何がやりたいの?」って言うと、「何かお手伝いできることがあればやります」って。で、「何がお手伝いできるの?」って聞くと、「わかりません」という人が結構多いんですよ。でも、受身で来られると、ちょっと難しいですね。「これやってください」って言っても、本人がやりたいことじゃなかったら、不幸なだけですからね。

瀬尾ま お話をうかがっていると、日本語教育でもいろんな働き方ができるんだなって思いますね。

土井 いわゆる日本語教育業界って、大学か日本語学校で教えるというようにすごく狭く捉えられているなって感じるんです。でも、地域の日本語教育もあるし、出版社とか大手企業が日本語教育コンテンツを作ったりとか、大手広告メディアが日本語教育産業を始めたりとか、日本語教育に参入する業種って増えてきてるじゃないですか。だから、日本語教育に携わりたい人が自分に合った形で携わって、それぞれそれなりにお金を稼いでいくっていうことが大切かなと思いますね。

「自分なりのスタイルを作っていく」―土井さんからのメッセージ

瀬尾ま 最後に、今から日本語教師になりたい人やキャリアの浅い人たちに向けてメッセージをお願いいたします。

土井 日本で暮らしていると外国人とかかわる機会がいっぱいあると思うので、必ずしも日本語教師を目指さなくても道はあるという視点を持つことは大事かなと思います。もう一つは、ことばは大切だとは思うんですが、学習者がことばを学べばすべて解決できるわけでもないということを考えてほしいと思います。ことばを教えることは一つの面として考えてもらって、実はそれ以外のことを知っておくことが、とても大事なんだと思います。
そして、自分に何ができるのかを考えて、自分なりのスタイルを作っていくことで、ぜひこの人にこれをお願いしたいって言われるようになるといいと思います。僕はとてもいいことだと思っているんですが、これまで「日本語教師」という一つのものだったのが、子どもに教える日本語教師、小学生に教える日本語教師、高校進学を教える日本語教師、ビジネスマンに教える日本語教師というように細分化されてきていますし、これからもどんどんそうなっていくと思うんです。そうすると、単に「私は日本語教師です」というだけでは、他にもそんな人はいくらでもいるので、どこからも声がかからなくなっていくなと思うんですよ。例えば、アルバイト経験でもいいですし、前職のキャリアも日本語教育の仕事に生かせると思うんです。なので、めいっぱい日本語教師の仕事を楽しみながら、自分なりのスタイルを作っていってほしいと思います。経験したことすべてが無駄にならずに生かせるなんて、最っ高の職業じゃないですか!

インタビューを終えて

瀬尾ま 「自分なりのスタイルを作っていってほしい」―大学生の頃は「日本語教師になる」という漠然としたイメージしか持っていらっしゃらなかったという土井さんも、いろいろな人とやりとりをし、さまざまな経験をしながら、新しい仕事を開拓されていました。日本語教育を学んだ先にあるのは、日本語教師だけではありません。自分のしたいことは何か、自分のできることは何かを考えながら、行動していくことの大切さを改めて感じました。

瀬尾ゆ 土井さんの、周囲の人々を巻き込んで共にやっていく力が印象に残りました。学習者とかかわっていると、ことば以外の問題に気づくことがままあります。そういうときに、「自分の仕事ではない」あるいは「自分がどうにかしなければいけない」と考えるのではなく、他の人の力を借りたり一緒にやろうとしていくことで、いろいろなことが少しずつ変わっていくのではないかと感じました。


シェアする