日本語教師の履歴書 第7回 杉村佳彦さん

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vol.7 「分野を・地域を・人を。つながり、つなげる」杉村佳彦さん

これから日本語教師を目指す人に、日本語教師の働き方にはどのようなものがあるのかを知ってもらうための連載。日本語教師や、日本語教育に関係する職に就いている人、日本語教育の勉強はしたけど別分野の仕事に就いた人、日本語教師から転職した人、転職して日本語教師になった人など、さまざまな形で日本語教育に携わる方々にお話をうかがい、日本語教師のキャリアについてみなさんと考えていきます。
今回は大学で教員をされている杉村佳彦さんです。


《今回の「日本語教師」》杉村佳彦(すぎむら・よひしこ)さん 宮崎大学語学教育センター専任講師。自宅浪人、フリーター、社会人、ニュージーランドでのワーキングホリデーを経て、専門学校にて日本語教育を専攻。日本語学校とビジネスマンを対象に教えた後、2004年にニュージーランドへ移住。移民アドバイザー、非常勤日本語教師の身でありながら、大学でマオリ学を専攻し、卒業。その後、専任日本語教師となり10年程クライストチャーチ工科大学に勤務。学科長も務めるが2015年より家族で宮崎へ。担当科目は、日本語教育(留学生)、ビジネス日本語、日本語教育概論、420時間日本語教師養成講座など。主な研究・活動は、マオリ関連(神話、アイデンティティ等)、日本語教師のライフストーリー、地域国際化など。モットーは、家族第一主義。


《聞き手》瀬尾匡輝(せお・まさき/茨城大学准教授)、瀬尾悠希子(せお・ゆきこ/東京大学講師) 日本語教育を学ぶ大学生たちの「『仕事』としての日本語教育をイメージすることが難しい」という声を受け、いろいろな「日本語教師」に話を聞きに行くことに。


2019年3月28日、オンラインで宮崎大学の研究室にいらっしゃる杉村さんに約2時間にわたってインタビューさせていただきました。

「ずっと海外なんて関係ない、教育なんて関係ない人生だった」―ワーキングホリデーで日本語教育に出会い、日本語教師の道へ

杉村 僕はずっと海外なんて関係ない、教育なんて関係ない人生だったんですよ。

瀬尾ゆ そうなんですか。日本語教育に携わるまでは何をされていたんですか。

杉村 特に勉強も好きなタイプじゃなかったので、大学受験に失敗して、自宅浪人していたんですよ。それでも大学に受かんなくて、もう働くしかないなと思って、医療系の会社で営業として働き始めたんです。でも、その会社が買収されちゃって、2年後には販売の権利が別の会社に移ることになって、この会社にいてもだめだなって思ったんです。でも、僕は大学も出てないし、パソコンも英語もできなかったから、どうしようかって……。そんな時に、会社の人がワーキングホリデーを勧めてくれて。「ワーキングホリデーに行くと、世界観が変わるし、英語も勉強できるよ」って言われて、ニュージーランドに行くことにしました。

瀬尾ま 英語はもともと得意だったんですか。

杉村 いや、全然。ワーキングホリデーに行く前に、日本で語学学校に通ったんですけど、その時のレベルが一番下から2番目のクラスでした。

瀬尾ま ニュージーランドの学校はどんなところだったんですか。

杉村 1クラス10人ぐらいの少人数制の学校でした。他のクラスは日本人が多かったんですけど、僕が入ったクラスはたまたまヨーロッパからの学習者がたくさんいて、英語を話さなきゃいけない環境だったんです。それに、ホームステイ先には留学生が5人いたんですが、そこも日本人は僕だけで、サバイバルで英語を学んでいきました。そして、2ヵ月ぐらい経ったら運よくアルバイトも見つかって。

瀬尾ま 何のアルバイトだったんですか。

杉村 お土産物屋さんだったんですけど、日本人はあまり来ない所で。たまに日本人のお客さんが来ても、年功序列で先輩の日本人のスタッフが接客をするので…。その分、英語は鍛えられましたけどね。

瀬尾ま ニュージーランドには1年ぐらいいらっしゃったんですか。

杉村 そうですね、1年間。その時に日本語教育に出会ったんですよ。お土産屋さんでアルバイトしているときに、高校の時に日本語を勉強してたりとか、日本に留学してたりとか、大学で今も日本語を勉強したりしている現地のスタッフがいたんです。そのスタッフの1人に、「1週間に1回、日本語のネイティブが大学に来て会話する授業があるから、よかったらそこに来て」と言われて、初めて日本語教育の存在を知ったんです。その時の教室にいらっしゃった先生が、ご主人が日本人で日本にも6年ぐらい住んだことがあるニュージーランドの方だったんですね。その方に「こんな仕事があるんですね」と話したら、「日本人のネイティブだったら、私より知っていることもあるし、絶対あなたも日本語教師になれるよ」って言われて。その授業に行っているうちに、自分が英語を勉強したときよりも、日本語を学んでいる人のほうが早く上達しているということに気づいて、「面白いな!これだ!」と思ったのがありますね。

瀬尾ま じゃ、その時に日本語教師になろうと思われたんですね。

杉村 そうなんです。でも、ニュージーランドで日本語教師になるには、大学か3年制の専門学校を出ていることが条件だったんですよ。それで、4年かけて大学に通うよりは、3年で手に職をつけながら教師になったほうがいいかなと思って、日本の専門学校を探すことにしたんです。自宅が神奈川の川崎だったので、東京を中心に見ていたら、当時は2つぐらいしか日本語教育を学べる専門学校がなくて。で、留学生を受け入れて、研修も付属の日本語学校でできて、授業も全部現職の先生がやってくれる専門学校があったので、そこに入ることにしました。そしたら、18歳ぐらいの同級生ばかりのなか、僕は社会人やって海外にもいたので、経歴はすごく輝かしくて(笑)。すると、専門学校の英語の先生から、「ちょっと日本語を教えてくれる?」って声をかけてもらえて、入学1年目から日本語を教えていました。

瀬尾ゆ へぇ。

杉村 教えていると、本当に楽しくなっちゃって。模擬授業が週に4時間もある学校だったんですけど、1年半で『みんなの日本語』の50課全部の模擬授業を終えちゃって。それに、土日はボランティアコースに2時間行って教えなきゃいけなくて、そこで結構揉まれましたね。で、卒業する頃に面接に行くと、社会人経験もあるから、すぐ受かっちゃって。

瀬尾ま よかったですね。

杉村 就学生専門の学校で非常勤講師として雇われて、最初は週に1日、4時間だけ入っていました。だから、登録派遣でデータ入力の仕事をしながら、日本語教師をやってましたね。でも、その分教案を書く時間がたっぷり取れてよかったですよ。そういうのをやってたら、他の非常勤の先生に、「社会人をやってたんなら、ビジネス日本語の授業をやってる学校を見に行かない?」と言われて、冷やかし半分で見に行ったんです。当時は、日本語教師の仕事と派遣のバイトで生活できるぐらいのお金はあったので、新しく仕事を増やす必要はないかなって思ってたんですけど、行って話を聞いたら、「男の先生は今は誰もいないから、ほしいね」とか、「専門学校でワード、エクセルとか学んだんなら、事務的なことできるよね」とか言われて。結局、そこで企業派遣の日本語教師として非常勤で働き始めました(笑)。

瀬尾ゆ そうなんですか(笑)。

北東アジア言語教育研究会にて

杉村 でも、欧米系の企業は朝が早いんですよね。8時スタートで5時には帰るっていう生活をしている方が多いので、レッスンもその時間内でしてくれっていう要望がくるんですよ。僕は埼玉に住んでいたので、8時から10時までの授業だと、朝5時半の始発に乗らないと間に合わなくて。

瀬尾ゆ 大変ですね。

杉村 週に2回ぐらい始発に乗って、ぎりぎり8時に着いて、そこで10時ぐらいまでレッスンしてたんですけど、「8時から10時の2時間のために2時間半かけて通うのは大変だから、昼まで授業入れてあげるわよ」って言われて、仕事が増えて。そうすると、ここでの仕事がメインになってきたんです。

瀬尾ま なるほど。

杉村 で、日本語教師をやり始めて半年ぐらい経ったら、最初に入った就学生専門の学校でも、「週1回だけじゃなくて、週3回来てもらえますか?」と言われて、派遣のデータ入力の仕事には行かなくてもいい状況になったんです。で、日本語教師として働いて1年終わる頃になったら、ビジネス専門の学校から「よかったら専任で雇えるけど、どうする?」って言われて。もう30歳近くになっていて安定したいっていうこともあったので、そこで働くことにしました。自分はその学校にずっといてもいいかなと思ってたんですけど、当時まだ付き合っていたニュージーランド出身の妻のお父さんが倒れてしまって。それで、ニュージーランドに帰るっていう話になったときに、離ればなれになっちゃうのもつらかったし、もともと将来は結婚しようと思っていたから、入籍してニュージーランドに移住することにしたんです。なので、せっかく専任にしてもらったんですけれども、2年も経たないぐらいで、そこの仕事はやめてしまったんですよ。

瀬尾ま それまで培ってきたキャリアを捨てるとき、未練はありませんでしたか。

杉村 ありましたよ。何とかフルタイムになれたのに、これを捨てるのはもったいないなと思いました。でも、これもしょうがないかなと思って。

杉村 ニュージーランドに戻ってきて、特に募集は出ていなかったけれども、いろんな大学に履歴書を送りました。でも、1年目は全然箸にも棒にもかかんなくて…。だから、半官半民みたいな会社で、移民を受け入れるプログラムのアドバイザーとして働くことにしました。

瀬尾ま アドバイザー?

杉村 1年間の通信のプログラムなんですが、月に1回受講生と会ったり個別訪問したりして、免許の取り方とか、小学校に入るときの手続きとか、保険とか、税金とか、そんなルールを教えたりするんです。いろんな国の方のサポートをしました。英語ができない方もいて、アポなしで訪問して、身振り手振りで税金の申請書の書き方を教えたりして。それはもう異文化でしたね。

瀬尾ゆ へえ、そういうお仕事があるんですね。

杉村 受講生は新しくニュージーランドに来た方だけじゃなくて、もう20年ぐらい住んでいるけど、この講座のことを知って受けてみたという人もいたんです。そういう受講生の中に、大学で日本語の非常勤講師をされている方がいて、ご縁があって2時間ぐらい電話で話す機会があったんですね。その後直接お会いする機会があって、話をしていたら、ご両親の体調が悪くなって、3、4ヵ月日本に帰らないといけなくなったから、代わりにコースを担当してくれないかというお願いをされたんです。後から聞いた話では、大学内では反対があったそうなんですけど、「あの人は大丈夫だから、自分が責任をとるから雇ってくれ」と言ってくださっていたそうなんです。それで、僕はまた日本語を教え始めたんですよ。

瀬尾ま 人のつながりは大事ですね。

杉村 大学は学期の途中で残り3ヵ月ぐらいだったんですけど、学生たちと馬が合って、いい感じで授業ができて。そしたら大学内での評価も変わって、「学生からの評判もいいから、他のコースも担当してもらえる?」って言われて。当時、ニュージーランドでは言語学習がすごいブームになっていたこともあって、週3回あった授業がそれでも足りないので週5回開講することになったりしていたんです。僕も最初は週2回夜の授業を担当していたんですけど、そのうち週4回担当することになって、移民のプログラムのアドバイザーはやめて、日本語だけを教えるようになりました。

瀬尾ま瀬尾ゆ へぇ。

杉村 で、移民のプログラムの仕事をしているときに、先住民族のマオリに興味を持ったので、大学で勉強したいなとも思うようになっていたんです。それに、将来はニュージーランドの高校の先生になりたいなとも思っていたので、午前と夜は日本語を教えて、空いている昼間に大学に通ってマオリ語とマオリ文化について学ぶことにしました。ただ、高校の先生になるには、2科目教えないといけないんですよ。だから、「マオリ語と日本語で言語という1つの科目になる。他に社会学とか、地理とか、歴史とかをやると2科目になるから、それを勉強して、言語の他に社会学とかが教えられたらいいかなと思うけどどう?」って大学のアドバイザーに言われて、その通りにやりました。

瀬尾ゆ たくさんやらないといけないから、結構大変ですね。

杉村 で、最後に教育実習があったので、大学の非常勤の仕事を辞めて、教育実習に専念しますって職場に伝えたら、「フルタイムのオファーを出すから残ってくれ」と言われて。でも、本当に高校の先生になりたかったので、高校の先生になるプログラムはやめる代わりに、修士課程に入って高校の先生になる道を探りたいと伝えると、いろいろと調整してくれて。フルタイムで教えながら3時ぐらいに退勤して、大学院の授業に行くという形で、マオリ語の修士のコースワークを終えたんです。

ニュージーランドの元教え子らが宮崎大のウィンタープログラムに参加

瀬尾ま フルタイムの仕事をしながら、修士課程に通うのは大変だったでしょうね。

杉村 ええ。でも、修士課程を終えた頃、社会の状況が変わってきて、言語の人気が下がってきちゃったんです。国の方針としても、理系を中心にして、言語に対する予算は全部カットしてしまって。そして、高校のシステムも変わって、語学で単位をとるのが難しくなっちゃったんですよ。そうすると、学習者たちも楽に単位がとれる授業を取りたくなっちゃって…。だから、高校の先生っていう道も厳しくなってきて…。

瀬尾ま そうなんですね。

「地域に密着した国際化計画」―ニュージーランドから宮崎に

杉村 そんな時、2011年にクライストチャーチで大地震があったんです。学校が半年ぐらい閉鎖されて、近所の教会や大きなホールを借りたりして授業をしました。で、地震から、3、4年経っても全然町が復興しなくて。余震も多いし、建物も直んないし、がれきも多いし、保険屋も修理代を渋ってるし、町全体がどんよりしてきちゃってたんです。それに、被災のひどかった人たちとひどくない人たちの温度差もあって。ひどい人たちは、いまだに水のシャワーを浴びてると言っている一方で、被災のひどくない人たちは、夜遊びに行けなくて楽しくないとか言って、ぎくしゃくしちゃってたんですね。自分の子どももまだ4、5歳でちっちゃくて、このままここにいると子どもによくないなと思ったんですよ。あと、子どもの日本語が変になってきてるなとも思ってたんです。小学校に行き始めると、家でどんなに日本語を使っていても、子どもの日本語が少しずつ減っていくんですよ。子どもに「今日何した?」って聞いたら、「『お昼箱』食べた」って答えたときに、もうこれは日本に行かなきゃと思いましたね。

瀬尾ま お昼箱?

杉村 ランチボックスのことなんですよ。「『お昼箱』、なんじゃそりゃ?」って思って。これじゃ子どもと日本語で会話できなくなるんじゃないかっていうのを感じて、妻と「日本に行こうか」って相談して。

ニュージーランドのハグレー公園にて娘と散歩中

杉村 「日本で働くんだったら、気候もいいし九州に行ってみる?」 って話しているときに、宮崎大学で募集があって。

瀬尾ゆ 募集が偶然出ていたんですか?

杉村 はい。探していたら、たまたま出てて。で、応募したらとんとん拍子に受かって、僕はこの就職活動では1校しか応募してないんですよ。

瀬尾ま そうなんですか?!

杉村 たまたま国際関係もできる人っていう募集で、自分が引っ掛かったみたいなんですよ。だから、日本語を教えるだけじゃなくて、留学生を高校に連れて行ったりしています。最近は国際がらみのミーティングがあると重宝がられて、呼ばれたりしていますね。

瀬尾ま 3月に北東アジア言語教育研究会で、地域と絡めたことを宮崎大学でやっているというご発表をされていたのですが。

杉村 そうなんですよ。宮崎には外国人がすごく少なくて、外国人を受け入れている企業さんも何をしたらいいか全然わかんなくて、お手上げ状態だったんですね。それで、宮崎のIT企業さんから「外国人が勉強できるeラーニングの日本語教材を作ったら売れますかね?」というお話をいただいて、お金をぽんとくださったんです。

瀬尾ま 太っ腹ですね!

杉村 そこの社長さんは元英語教師で、英語がペラペラの国際経験豊かな方で、いろんな国に行っていたんですね。で、バングラデシュは英語力もIT力も高いんだけれども、貧困でどんなにがんばっても現地では仕事がないと。それで、かれらに日本語を教えれば宮崎に来てもらえるんじゃないかというお話をされていて、宮崎市に話を持っていったんです。そしたら、国際化としていいんじゃないかということで、役所としても家賃や交通費を補助するための予算をとるとおっしゃっていただいて。

瀬尾ま どんどんいろんなところのつながりができていったんですね。

杉村 そうなんですよ。で、大学と役所とIT企業が組んで、バングラデシュで日本語を3ヵ月ぐらい教えようとなったときに、バングラデシュで広く展開している東京の企業さんが、うちの社員にもSKYPEを使って教えてくれという話になって、やり始めたんです。すると、今度はそのバングラデシュの企業さんのスペースを借りて、日本語学校をやろうということになったんです。そうしたら、JICAさんが乗ってきてくれて、大きなプロジェクトになったんですよ。2019年4月には宮崎に4期生が来て、最初の3ヵ月は宮崎大学工学部に所属してITと日本語を勉強して、午後はインターン先で働くというようなプログラムをやっています。

瀬尾ゆ そうなんですか。

杉村 今はもう20名以上を受け入れていて、産官学民で地域に密着した国際化計画をやっていますね。

瀬尾ま いいですね。

杉村 それで、外国人が入ってきたんですけれども、宮崎では日本語教師が足りないうえに、日本語教師を養成する場がないことが次に問題として上がってきたんですよ。これまで宮崎で日本語教師になりたい人は、県外の養成講座や大学の修士課程に通う必要があったんです。それで、この問題を解決するために、産学連携としてベンチャー企業を立ち上げて、そこで日本語教員養成講座をしようという動きが今あります。書類は全部通って、8月から日本語教師養成講座を始めるということで調整しているところです(※2019年8月から開講されています)。

瀬尾ま 宮崎に来ていろんな活動をされているんですね。どういうことがモチベーションになっているんでしょうか。

杉村 最近の留学生は、単に日本に来て、友達ができて、楽しかったっていうのではなく、その先にある就職も意識しているんですよね。でも宮崎みたいなちっちゃい所だと、地域とのつながりがないと就職はなかなかできないんですよ。

「何でも屋」―幅広い仕事と家庭の両立

瀬尾ま 博士課程に進まれたのは、何かプレッシャーがあったからなのでしょうか。

杉村 学術界に足を踏み入れたからには、博士って必要なものだと思ったんです。それに、自分が教えた学習者たちが博士号をとっていて、ニュージーランドで大学のポジションの募集が出ても、僕のように日本語ネイティブでも修士号しか持っていない人は受からないで、そういった博士号を持った学習者たちが大学の先生になることが多いんですよね。今の宮崎のポジションでは博士号は要求されていないんですけれども、僕は今45歳なので、これから20年ぐらい働かなきゃいけなくて、やっぱりこれから必要になるかなと思うわけですよ。それに、学会で発表すればするほど自分に博士がないっていうことに負い目も感じていましたし…。

杉村 それで、日本で博士課程を探していたんですけれども、宮崎にはなくて、熊本で見つけたんですね。でも、隣県だけれども間に霧島山脈があるので、宮崎から熊本に行くのに車でどんなに早くても4時間ぐらいかかるんですよ。で、通信講座がある大学は私学なので、学費がすごく高いうえにスクーリングのための飛行機代とか宿泊費を考えると、無理だなって…。それで、台湾の大学で遠隔でも受け入れてくれるところがあったので、そこに通わせてもらうことにしました。台湾だと宮崎から直行便も出ていて、3万円台で行けるんですよ。それに物価も安いし、大学のゲストハウスにも泊めさせてもらえるので、費用を安く抑えられるんですよ。

瀬尾ゆ 博士論文はどういうテーマで書かれるんですか。

杉村 ベテランの日本語教育の先生方のライフストーリーを書こうと思っています。

瀬尾ま おもしろそうな研究ですね!

入門クラスの学生と

杉村 あと僕は、日本語教育だけじゃなくて、マオリの研究もしているので、そっちのほうでも一般市民の人を対象にした公開講座をやっています。「専門は何?」って言われると、「うーん」ってなってしまうんですけれども、専門が1つだけあるわけではなく、何でも屋というか、いろいろなことに目を向けていますね。

瀬尾ゆ 1本に絞っていこうとは、特に考えていませんか。

杉村 特にないですね。日本語教育って、将来的に翻訳ソフトの発展などで機械化されてしまうと、いつかなくなるんじゃないかなと思っています。それに、ニュージーランドとか欧米を見ると、学習者は減ってきていますし。

瀬尾ま そうなんですね。

杉村 そうすると、もう1個専門があったほうが、希少価値が出ていいかなと思うんですよね。それに、先住民族の研究をしていると、いろんなつながりも出てくるんです。この間、台湾に出張したときに、台湾の原住民とニュージーランドのマオリの起源が似ているという話があって、僕もこの辺をちょっと調べてみようかなって言うと、学長もその話に興味を持ってくれて。宮崎大学の他の先生が寄生虫を研究していて、寄生虫と先住民マオリ文化を合わせて人がどう移動していったかを医学と人文社会学的に研究しようと誘われたんですよ。

瀬尾ゆ 広がりますね。

杉村 そう! 自分自身にも幅が出てくるので、個人的にはいいかなって思っています。あと、宮崎大学は大きな大学ではないので、人が足りていなくて、なんでもやらなきゃいけないっていうのもあるんですね。人材不足なので、日本語の先生だけじゃなくて、英語の先生も他のことをやったりして、掛け持ちしないといけないというような厳しい現実はありますね。

瀬尾ま それは別に苦ではないんですよね?

杉村 苦じゃないです! 僕はそういうのが結構好きなので楽しくやってますね。

瀬尾ま 仕事を熱心にされていますけれども、ご家族は大丈夫ですか。

杉村 うまくバランスをとってやっていますね。たとえば、海外の協定校に仕事に行くときは、しっかりお土産を買ってフォローしてます(笑)。

瀬尾ま 子育てと仕事を両立することの難しさってやっぱりありますか。

杉村 僕はニュージーランドでも子育てと学生をやりながら働いていました。ニュージーランドは子どもを大切にする社会で、子どもが病気だったらすぐ会社を休めたり、学校に子どもを迎えに行かなきゃいけないっていうと、3時に帰っても大丈夫なんですね。社会全体がそうなっているんですよ。そういうことが当たり前な所から宮崎に来たときは、本当に男性は子育ての場に出てこないなって思いました。初めて小学校の授業参観に行ったときは、男の人は僕1人しかいなくて…。でも、たぶん僕がいたから、他のお母さんが「男の人が来てるから、大丈夫よ」みたいなこと言ったんでしょうね。それからは男の人も増えて、25人中5人がお父さんみたいな感じになりましたよ。でも、クラスの懇談会となると、お父さんは全体的に少ないですよね。授業参観が終わって、懇談会が始まるとスーとみんないなくなって、僕だけになっちゃうとか。

瀬尾ゆ そうなんですか…。

杉村 でも、ぶっちゃけた話、いろんな経験をしてきて、大学が一番楽かなっていう気はします。うちは裁量労働制なので、土日も出張があれば、平日に代休が取れるし。授業をちゃんとやって、研究発表もちゃんとしていれば、何か言われることはないですね。それに、子どもがいる先生が周りに多いので、結構理解もありますしね。

瀬尾ま なるほど。

杉村 たとえば、娘が風邪をひいたら、午前中は来なくても大丈夫だからみたいな感じでおっしゃっていただける。それに、子どもを大学に連れてくる先生もいらっしゃる。ただ、それでも、ニュージーランドと比べると、男の人は入学式や授業参観にもあまり行かないので、厳しいところはありますけれどもね。

「大きな目標を持って、チャレンジする」―杉村さんからのメッセージ

瀬尾ま 最後に、今から日本語教師になりたい人やキャリアの浅い人たちに向けてメッセージはありますか。

杉村 日本語教師は、これまでのいろんな経験が生かせる仕事かなと思っています。例えば、社会人経験だったら、それがビジネス日本語やインターンシップにも生かせるし、教員をされていた方だったら、その経験自体が生かせると思います。反対に、特に何かの経験がなくても、がんばってゼロから勉強していけばなれる仕事でもあると思うので、チャンスは誰にでもあると思います。そして、日本語教師は経験を重ねれば重ねるほど、自分のスキルも上がっていくところがあるので、とにかく大きな目標を持って、あきらめずにぜひチャレンジしていただきたいと思っています。

インタビューを終えて

瀬尾ま 新しい仕事をどんどん進めていらっしゃる杉村さんのお話を伺い、自分ももっとやらなきゃいけないなと思いました。そして、お仕事について楽しそうにお話されている姿を見て、本当に楽しくお仕事をされているんだなと感じました。そんな杉村さんに惹かれた人たちとのつながりが、どんどん作られているのだろうなと思いました。

瀬尾ゆ ご家族、仕事、学業という三足の草鞋を履きこなしていらっしゃる杉村さん。自分にとって大切なものをしっかりと守りつつ、同時にフットワーク軽く動かれているのが印象的でした。


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