日本語教師の履歴書 第2回 山本弘子さん

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vol.2 「やりたいことをやってみる、自分で場を作る、物事は変えられる」山本弘子さん

これから日本語教師を目指す人に、日本語教師の働き方にはどのようなものがあるのかを知ってもらうための連載。日本語教師や、日本語教育に関係する職に就いている人、日本語教育の勉強はしたけど別分野の仕事に就いた人、日本語教師から転職した人、転職して日本語教師になった人など、さまざまな形で日本語教育に携わる方々にお話をうかがい、日本語教師のキャリアについてみなさんと考えていきます。
今回は日本語学校の代表をされている山本弘子さんです。


《今回の「日本語教師」》山本弘子(やまもと・ひろこ)さん カイ日本語スクール代表。大学卒業後、ゼネコンのOLを経て、日本語教師。専任講師→非常勤講師→学校設立後、現在に至る。日本語教育振興協会(日振協)地区選出評議員、研修委員、日本語学校研究大会委員などを通して、日本語留学のさまざまな課題に遭遇し、発信、活動を行っている。2012年から日本留学アワーズという「日本語学校の教職員が選ぶ留学生に勧めたい進学先」調査を毎年行い、上位校を表彰する活動を始めた。このアワーズを通し、高等教育機関に向けて日本語学校からの発信を続けている。主著に『音とイメージでたのしくおぼえる擬声語・擬態語(初・中級)』、『実践にほんご指導見なおし本』。


《聞き手》瀬尾匡輝(せお・まさき/茨城大学全学教育機構 講師)、瀬尾悠希子(せお・ゆきこ/獨協大学国際教養学部 特任講師) それぞれが大学で日本語教師養成の授業を担当している。学生たちの「『仕事』としての日本語教育をイメージすることが難しい」という声を受け、いろいろな「日本語教師」に話を聞きに行くことに。


2019年1月24日、東京都新宿区にあるカイ日本語スクールにお邪魔し、教室で約1時間半にわたってお話をうかがいました。教室は通路側に大きな窓がある開放感のあるつくりで、インタビューの間も学習者のみなさんが熱心に授業に取り組んだり、休み時間に楽しく談笑したりしている姿がうかがえました。

「なんかやらなきゃ」「自立したい」
―OLから日本語教師への転身

瀬尾ゆ どのような経緯で日本語教師になられたんでしょうか。

山本 私は大学を出て、ゼネコンのOLをしてたんですね。OLは楽しかったんですけど、3時ぐらいになるともうやる仕事がなくなっちゃうんです。それで3時から時計を見て、あと何分、みたいな感じで仕事をしていて(笑)。
事務職だから別に勉強することもないですし。ま、新人だからちやほやされて楽しかったけれども、それも2年が限界かなって感じで。ちょうどそのときにワープロが入ってきたんですよ。それで、やっとなんか面白いものが覚えられると思ったら、先輩が「これ以上仕事が増えたら大変」って言ってワープロの導入に大反対をしたっていうのを聞いて、これはあかんと。ここにいたらあかんと、ますます辞める気になって(笑)。
ちょうどその頃、大学時代に比較文化のゼミでお世話になった先生が、日本語教師養成講座でも教えてらっしゃると聞いて。「そんな仕事があるんだ」と知って、「ちょっとやってみようかな」って。

瀬尾ゆ 外国人に日本語を教えるっていうのをそのときに初めて知ったんですか。

山本 そうなの。退職金もちょびっと出たし、それを養成講座代にして。

瀬尾ゆ その時は何か成長したいとか、そういうお気持ちだったんでしょうか。

山本 なんかやらなきゃ、やりたいなと思ったのと、やっぱり自立したいと思ったんですよね。もちろん結婚の選択とかいろいろありますけれども、結婚するにしたって男性に食わせてもらうっていうと、自分の好きな男性にもし収入がなくなったら2人でのたれ死んじゃうじゃない? 私が好きな人と結婚したいと思って、その人がどんな人であっても自分に収入があったらいいなって。

瀬尾ゆ 日本語教師は職業として成り立つだろうというイメージだったんですか。

山本 収入がどうのこうのとか、そこまでちゃんと考えてるようで考えてなかったですね。あとは、大学での専攻がマスコミだったので、コピーライティングとかそういう業界でちょっとバイトもしましたけど、なんか業界的に好きになれなったんですよ。

瀬尾ゆ 日本語教育のほうが肌に合う?

山本 かどうかもまだわかんなかったですけど。

瀬尾ゆ 養成講座はいかがでしたか。

山本 ことばが好きだったので、ことばを分析して、こんなふうに言うと外国人はわかるんだっていうのがすごく面白くて、それは本当にわくわくしましたね。

瀬尾ゆ 養成講座を修了されてすぐに日本語教師の仕事はあったんですか。

山本 私はそのままその学校の専任講師になりました。その頃は外国人といえば駐在員とか英語の教師で。あとは難民のクラスとか、外交官や企業のGMの家やオフィスに派遣授業に行ったりっていう感じでしたね。

瀬尾ゆ 今とは学習者の層がけっこう違ったんですね。

山本 そうですね。

瀬尾ゆ 当時、山本先生は生活で困ったりとか、そういうことはなかったんですか。

山本 いや、豊かではなかったですよね。他がバブルで浮かれてるときに、全然そんなの関係なかったです。私はOLとして会社に入ったときの初任給は9万円台だったかな、そんな時代ですよね。それでOLを辞めたときは11、12万円ぐらいだったんじゃないかな。それで、ボーナスったって10万円ぐらいだったし。だから、まったくバブルの恩恵は受けませんでしたけど。で、日本語学校のときはどうだったかな、月給12〜13万円だったんじゃないかな。

瀬尾ま じゃ、OL時代とそんなに変わらなかったんですね。

山本 まあ、でもボーナスはそんなにないですよね、企業とは違ってね。


「やりたいことをがんがんやる」
-自分で日本語学校を立ち上げる

瀬尾ゆ 最初の日本語学校ではどれぐらいの期間働かれていたんですか。

山本 2年半だったかな。で、あの頃凡人社が「麹町サロン」っていうのをやっていて、日本語教師のたまり場になっていたんですよ。そこに行くと、本屋さんなんだけどコーヒーが無料で飲めて。で、行くといろいろ相談に乗ってくれて。

瀬尾ゆ 相談っていうのは教え方の相談ということですか。

山本 これからどうしようっていう相談。あの頃は、当時もその後もご活躍の先生方が、しょっちゅうそこら辺でいろいろごそごそやってたんですよ。私なんかのペーペーの新人が行っても、「見てみてよ、この本、僕が書いたの。どう?」みたいな、そんな感じで話しかけてくれてね。

瀬尾ゆ 本当にサロンって感じですね。

山本 サロンでしたね。で、そういうところがあって、私が「学校、辞めたんです」って言ってしばらくしたら、専務から電話がかかってきて、「いつまでもぶらぶらしてないで仕事やんなよ」って高田馬場の新設校を紹介してくれて。「専任はもう疲れたから、非常勤だったらいいかな」って私も言って。
大学の先生が、お持ちになってるマンションを日本語学校に一部改造して始めた学校があったんです。で、そこで「どんな本を使ったらいいかしら」、「これやろうと思ってるんだけど」みたいなところからいろいろ関わらせていただいて。ちょうどそれが1985年ぐらいかな。
その学校はそこら辺の外国人がぽろぽろ集まってきて、会話をメインにした授業スタイルで楽しかったんですけど、しばらくしたら台湾の旅券が自由化になって、台湾から人がたくさん入ってきて急に進学っていう雰囲気になってきて。で、ワンテンポ置いて今度は韓国の人がだーっと入ってきたんですよ。それでもう一挙にがんがん教室も増えて。その頃は、随時入学で、毎月クラスを新設していったんです。だからすごい勢いで学習者の数も増えていって。で、理事長から「今度、分校をつくるからそっち行く?」って言われて。それがカイ日本語スクールが今ある、この場所だったんです。

瀬尾ま カイ日本語スクールはもともとはその学校の分校だったんですか!

山本 そうです、分校だったんです。で、この場所を見に来たら、ここは以前はダンススクールだったので建物の構造が面白かったし、ここだったら面白いことがやれるかなと思って。私が「自分の好きなプログラムで、スタッフも私が選んでよくて、そして独立採算にしない、私の給料は時給で」っていうふうにすごくいっぱい偉そうな条件を付けたら、理事長は全部飲んでくれたの。

瀬尾ゆ瀬尾ま へー。

瀬尾ま いいですね、自由にできるし。

山本 自由にできるし、お金の心配はしなくていいしっていう条件でやらせてもらって。で、私は常々、進学中心で画一的な感じになっていくと、読み書きはできるけど会話が苦手とか、そういうアンバランスな人たちが取り残されてしまうと感じていたんですね。そういうアンバランスな人たちを吸収できるようなプログラムを作りたいってずっと思っていて。「じゃあ、それを作ろう」って言って、ここで作ったんです。

瀬尾ゆ 楽しそうですね。

山本 すごかったですよ。ほぼオリジナルの教材だったので、コースが始まってからも毎日夜の9時、10時までずっと次の日の授業を作って。

瀬尾ま それは日本語教師になってどれぐらいの頃だったんですか。

山本 5年目ですね。

瀬尾ま じゃ、まだ駆け出しというか新人時代の。

山本 そうですね、今から見ればね。でも、あの頃は偉そうに一丁前の気分だったんですよ。2年ぐらい経つと、景色が見えちゃってる気になってる。深く下まで見えないっていうか、怖いもの知らずのときで、こうしたらいい、ああしたらいいって夢だけ持って。

瀬尾ま 夢と現実のギャップの間で苦労されたりっていうことは特になかったですか。

山本 いや、やりたいことをがんがんやっていたので苦労とは思わなかったですね。大変だけど若かったし、本当に休みなくずっとやってましたけど、面白かったですよ。

瀬尾ゆ その学校の分校が、この今のカイ日本語スクールに変わったんですか。

山本 その学校が縮小して分校を閉めることになったんですよ。閉めるから本校に戻って来いって言われて。でも、ここは私のお城だったし、好きな仲間を呼んでいたし、戻るなんてとんでもないと思って。それで、そのときにいた仲間を説得して、学校に「ここを独立させてくれ」って言って頼んで切り離したんです。そのときに資金を集めて買い取るという形を取って。

瀬尾ま そのときのお金はどういうふうに捻出されたんですか。

山本 ここで始めるっていうのを決めて、そのとき私を入れて4人の仲間が出資という形をとってそれを資金に。

瀬尾ま 貯金があるのがすごいですね。自分、今、出資しようと思ってもお金がないですもん(笑)。

山本 いやいや、私は親からお金を借りましたけど(笑)。みんな少しずつ親から。だってお金なんかないですよ。

瀬尾ま 今までは時給で給料がちゃんと入ってくる形だったんですけれども、どうして出資金を出してまで学校を立てて、不安定な道に進まれたんですか。

山本 それはやっぱり、私は日本語教育は楽しいから好きだったんですよ。これはいい仕事だと思った。これをやっていくためにはチョイスは2つ、人のところに雇われるか自分でやるかしかない。人のところで2カ所やって、たった5年でしたけど自分なりには十分経験したと思ったし、それに、理念なんかが違うところで仕事をする苦しさっていうのを経験していたので。だから、自分がやりたいように、理想を自分なりに追い求めるっていうことをやりたいって思ったんですよ。それから、職場の仲間も大事だと思ったんです。どんな人と一緒に仕事をするかっていうことはとても大事だというふうに感じていたので、ちょうど理想的に自分の好きな人たちと一緒に仕事ができている、この環境を壊したくないというか離れたくない、そのためにはこのまま続けるのがベストだっていうふうに思ったんです。収入はその次に来るというか、そこは頑張れば何とかなるんじゃないかという甘い期待で。

「世の中は変えられる」
―自分で場を作っていくことの大切さ

山本 日本語を教えるっていうことは、外国人と日本社会とをつなぐポジションにいるわけですよね。そうすると日本社会のシステムとの不整合みたいなものがたくさん見えてくるし、私たちはそれについての一種、代弁者的なこともしていますよね。だから、何か問題だと思えば発信するっていうことは私たちの役割なのかなって思っています。だって他に誰も言う人いないじゃないですか。

瀬尾ゆ そうですね。発信はどのように?

山本 日振協(一般財団法人日本語教育振興協会)に入って仲間ができたのは、大きかったと思います。私1人じゃこんなにはできないし、やっぱり同じ思いの仲間がいて、いろんな人の知恵をお互いに寄せ集めながら「ああしよう、こうしよう」って進めていくことができる。やっぱりみんな同じように「町の日本語学校」の弱さを感じてますから。誰も守ってくれない、私たちの問題を誰も見てくれない。行政からは日本語学校なんか困った存在ぐらいにしか思われていない。

瀬尾ま 日本語学校同士ってお互いに学習者を取り合うライバル同士かなと思ったんですけど、協力し合ってることが多いんですか。

山本 やっぱり私たちの間で共有できることってあるわけですよね。いろんな施策がどんな学校にも関係してくるし。たとえば、先日も日本語学校の質的な管理に関して日本語能力試験(JLPT)等を使うって国が言い出したんですよ。そしたらすべての日本語学校が試験対策をしなきゃいけなくなっちゃいますよね。そんなの許せないでしょう?

瀬尾ま そこで団結してみんなで戦っていくっていう感じなんですね。

山本 そうですね。本当にそう。ヨーロッパのほうでもまったく同じらしい。うちはIALC(International Association of Language Centres /1983年創設)っていうヨーロッパの協会に10年くらい前に入ったんですけど、IALCも35年ぐらい前にヨーロッパで、同じような悩みを何校かで集まって話し合って、「質の高い語学学校の協会を作ろう」って言ってできた団体なんですよ。今、20数カ国、120校ぐらいが入ってる。そんなに大きくないんだけれども、老舗の質的な団体なんですよ。入会審査は厳しいけれど、入るとみんな仲良くて、語学学校、みんな頑張ろうぜみたいな感じでいろいろとやっている。

瀬尾ま じゃ、そこで質保証を学んだという感じですか。

山本 そうですね。そこがうちのクオリティー認証の最初。で、今はISO(国際標準化機構)も入ってますし、日振協の第三者評価も受けてる。うち、3つ認証持ってるんですよ。

瀬尾ま すごいですね。

山本 でも、誰も知らないの。3つ入ってるけど、そういうことをみんな、日本の社会も行政も知らないし。

瀬尾ま こういう認証には、他の学校も入っているんですか。

山本 ISOは2014年に語学教育に関する認証規格ができたんですけど、まだ4校ですよ。

瀬尾ゆ 日本で?

山本 そう。700数十校あって、たった4校ですよ。

瀬尾ま それは認証をとるのが難しいからみなさん入らないんですか。それとも、興味がないから?

山本 難しいのもあるし、それが訴求しないようなマーケットなんですよね、日本留学の場合。要するにマーケットとして成熟してないわけですよ。もしマーケットが成熟していたら、学習者もそういう認証をみんな知っていて、認証を持ってる所に行きますよね。

瀬尾ま そうですよね。でも、そんな中でどうしてカイ日本語スクールは認証を受けたんでしょうか。

山本 ヨーロッパの情報が入るので、教育市場での認証の重要性っていうのは知っていたし、それにISOっていうとグローバルに有名な基準なので、ISOの語学教育規格ができたっていうことはいいチャンスっていうか、取ってみようかなと思ったし。それに、勉強にもなるんですよ。質がわかるようにエビデンスを立てていくプロセスは大変ですけど、こういう視点でこういうことを整えなきゃいけないんだなっていうのがすごく勉強になる

瀬尾ま お話をうかがっていると、教師になってからも勉強が大切なんだなって思いました。勉強だったり、新しいことを取り入れていくというのは意識的にされているんでしょうか。

山本 いろいろな問題に対応していこうとすると、勉強とか、新しいことを取り入れることになるって感じです。

瀬尾ゆ 古いままではやっていけない。

山本 そうですね。古くていいっていうのもあると思うんですね、価値観としてはね。でも、うちの理念として、革新的に学生たちをサポートするっていうのが1つあって、新しいものをどんどん導入していくっていうのをうちの価値観に置いているので、そうすると勉強せざるを得ないというか。

瀬尾ゆ なるほど。

山本 学校を立ち上げると、やってみなければわかんないことがすごくたくさん出てきて。どんなに頑張っても組織の下でやっているうちは見えないこととか、わかってるつもりだけど本当にはわかってなかったことがたくさんあるんだけれども、学校を運営したことで目線が上がったっていうのをとっても強く感じました。で、それがすごくやりがいにもつながっていったし面白かったし、やってると次から次へと課題が出てくるわけですよ。それを追いかけているうちにあっという間に30年も経ってしまって、気が付くともうこんな年になってたって感じですよね。
だから、この仕事は本当に面白い。やることはいくらでもあるし、どっちにも突っ込んでいける。やる前はいろいろ心配になったりするけど、踏み出してみて進んでいくと違う景色がどんどん見えてきてっていう、山登りみたいに下からは見えなかったことが進むにつれて見えてくる。行かないと見えないことがたくさんあるし、途中でも面白いものがいっぱいあって、進まなければ、とにかくわかんない。

瀬尾ま もし仮に雇われの教師だったらそういう世界、見えなかった可能性もありますか。

山本 そうですね。やってよかったと思います。でも、みんなが経営者になったら困るわけですし、それはそれでその人の生き方ってある。なんだけれども、枠を決めたら駄目だなって思うんですよ。枠の中で動いて苦しんでる人がすごく多いような気がする。

瀬尾ゆ 枠があって苦しい。

山本 自分で枠を勝手に決めて、だからできないんだっていうふうに思って、それを正当化しちゃってるっていうか。できないのが当たり前みたいに思っちゃってるけれども、実は誰もそんなこと決めていない。たしかに小さい組織の中でそれぞれ決まりごとはあるけど、でもすべては人が決めてることじゃないですか。だから、もしかしたら変えられるかもしれない。日本語のこの仕事の面白さは、何も決まってないこと。決まってるようだけど、何も決まってないんです。で、決まってることでさえも決して確かだったり適切だったり正しかったりしないの。だから、世の中って変えられるんですよ、それが前提。「人」のために「人」が集まって作ってるのが社会なので、その「人」が変えようと思ったら変えられるのが民主主義だし、そういう社会のはずなんですよ。ということを私たちはやっぱり根本的に信じていないと、幸せにならないと思う。

瀬尾ま そんな中で経営者の立場から、山本先生はどんな日本語教師を求めますか。

山本 そうですね。一つは馬力があるのが大事かな。今いろいろ働き方改革とか言うから、みんなすぐブラックだの、いっぱいいっぱいだのって言うんですけど、それも自分で枠作っちゃってつらくなってるのかなっていう気がします。面白いことって打ち込めるから。でも、それって私、経営者の立場だから言えないんですよね。今そんなこと言ったらブラック企業(笑)。

瀬尾ま 確かに。

山本 だけど、自分が面白いことをやろうと思ったら、そういうことは忘れてがーっと突っ込むっていう時期なり、局面なりってどうしても出るじゃないですか。だから、とらわれないでやりたいことをやるっていうことがとっても大事かな。そういうことをあんまり気にしないでやる突破力みたいなもの、それから面白がるとか、ポジティブに捉えるとか、とにかくニコニコする力とか。

瀬尾ゆ 楽しく好きなことを一生懸命やる。

山本 そうそう。眉を開いてやってみたいっていう力が必要ですよね。それがあるとなんでもできる。日本語教師は生活が安定しないっていう声があるかもしれないですけど、自分が場を変えればいいんですよ。それで嫌だったら、自分でつくればいいじゃないですか。今だったらインターネットを使って場所なんか借りなくてもできちゃうわけだし、それで難しいなってわかったら人の下で働く楽ちんをちょっとしてみて、お金を貯めたらまた違うことやってもいいし、失敗してもいいし。なんか稼ぐ方法っていろいろあるはずなんですよ。日本語教育って、ものすごくいろんなところに接続してるから、どんなことでもチャンスとした仕事はあると思う。

「やったらやったでリワードが大きい」
―山本さんからのメッセージ

瀬尾ゆ 日本語教育に興味を持っている人とか、日本語教師になりたいっていう人やキャリアが浅い先生たちに何かメッセージがあるでしょうか。

山本 キャリアが浅いのは強みだと思いますね。知らないからできることって、いっぱいあって。基本、できなくて当たり前、知らなくて当たり前、ばかで当たり前。その中でそういうことを怖がらずに自分がぽんっとやったことがすごく価値があるかもしれないですよね。情報が多すぎて何にでもネガティブな情報ってついて回るから、そんなこと考えてたら何もできないですよね。ある意味、目をつぶってぽんっとやるっていうこと、やってから初めて見えることって出てくるので。
日本語教師はすっごく面白い仕事だと思います。こんなに面白い仕事はなかなかないと思います。楽しいし、やりがいがあるし、やったらやったで実際に学生の日本語がうまくなるとか喜んでもらうとかってものすごくリワードが大きいですよね。そのことに感謝しているうちに多分何かが生み出されていく、自分の中で芽生えてくるものって必ずある。最初からセキュアで確かなものってないですよね。安全でぴかぴかで夢も希望もあふれてる、そんなものないですよ。そう見えたら怖いですよね。それ、もしかして危ないんじゃないって。

瀬尾ゆ なんかだまされてるんじゃないって感じですよね(笑)。

山本 最初から暗いほうがあとは上がるだけ。

瀬尾ゆ ポジティブになんでもやっていくってことですね。

山本 そう。なんにも決まってないとか、めっちゃくちゃっていうほうが面白い。日本語教育って分野としてもまだ新しいし、そして学際的だし、いろんな人が入って来られるし、偉ぶってる先生もそうたくさんはいないし、そういう意味ではすごくいい。ちょっとやると、すぐみんなが「おーっ」ていうようなところあるじゃないですか(笑)。だから、本当に面白いと思いますね。

瀬尾ま チャレンジすればその分、返ってくる職業ってことですもんね。

山本 そう。ネタはいくらでもあるし、そのネタ、世間ではみんな珍しいと思うし、本当にちょっとやると、面白いことたくさんありますよ。

インタビューを終えて

瀬尾ま 「世の中って変えられる」、「自分が場を変えればいい」、このことばが強く心に響きました。「カリキュラムが…」、「学習者が…」、「上司が…」と自ら枠を作ってしまうことって確かにあるなと思います。そんな自分で作った枠を取っ払っていくことが大切だなと改めて思いました。

瀬尾ゆ やりたいことに向かっていくエネルギーを山本先生から感じました。同時に、それを実現するために学び続け、必要だと思ったことをやっていく地道な一歩一歩も楽しまれているのが印象的でした。「日本語教育はいろんなところに接続してる」ということばに、日本語教育の可能性と重要性を再認識しました。


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